大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

神戸地方裁判所豊岡支部 昭和52年(ワ)85号 判決 1985年10月30日

原告

梅田平

太垣昇

西野清

奥村忠俊

佐藤昌之

尾下秀敏

橋本哲朗

上垣賢司

松田一戯

植田友蔵

西本光雄

亡西岡二郎訴訟承継人

西岡紀子

原告

西岡太郎

西岡達郎

西岡充郎

西岡麦穂

右原告西岡太郎、同西岡達郎、同西岡充郎、同西岡麦穂法定代理人親権者母

西岡紀子

右原告一六名訴訟代理人

前田貞夫

山内康雄

垣添誠雄

前哲夫

田中秀雄

羽柴修

竹嶋健治

福井茂夫

同西岡二郎訴訟承継人原告五名を除くその余の原告一一名訴訟代理人

小牧英夫

川西譲

大音師建三

木村祐司郎

高橋敬

岩崎豊慶

野沢涓

藤本哲也

被告

丸尾良昭

尾崎龍

安井千明

安井義隆

右被告四名訴訟代理人

麻田光広

中嶋徹

丹治初彦

分銅一臣

赤松範夫

山上益朗

上野勝

高野嘉雄

浅野博史

桜井健雄

中北龍太郎

正木孝明

在間秀和

里見和夫

河野勝典

主文

一  被告らは、各自、

1  原告梅田平、同太垣昇、同西野清、同奥村忠俊、同佐藤昌之、同尾下秀敏、同橋本哲朗、同上垣賢司、同松田一戯に対し各金三三万円及び内金三〇万円に対する昭和四九年九月一〇日から支払ずみまで年五分の割合による金員、

2  原告植田友蔵、同西本光雄に対し各金二三万円及び内金二〇万円に対する昭和四九年九月一〇日から支払ずみまで年五分の割合による金員、

3  原告西岡紀子に対し金一一万円及び内金一〇万円に対する昭和四九年九月一〇日から支払ずみまで年五分の割合による金員、

4  原告西岡太郎、同西岡達郎、同西岡充郎、同西岡麦穂に対し各金五万五〇〇〇円及び内金五万円に対する昭和四九年九月一〇日から支払ずみまで年五分の割合による金員

をそれぞれ支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを三分し、その二を被告らの、その余を原告らの各負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  原告ら

1  被告らは、各自、原告梅田平、同太垣昇、同西野清、同奥村忠俊、同佐藤昌之、同尾下秀敏、同橋本哲朗、同上垣賢司、同松田一戯、同植田友蔵及び同西本光雄に対して各五五万円及び内金五〇万円に対する昭和四九年九月一〇日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を、原告西岡紀子に対して金一八万三三三六円及び内金一六万六六六八円に対する前同日から支払ずみに至るまで前同割合による金員を、原告西岡太郎、同西岡達郎、同西岡充郎及び同西岡麦穂に対して各金九万一六六六円及び内金八万三三三三円に対する前同日から支払ずみに至るまで前同割合による金員をそれぞれ支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行の宣言

二  被告ら

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者の地位(昭和四九年九月当時)

(一) 原告梅田平(以下「原告梅田」という。)は地方公務員、同太垣昇(以下「原告太垣」という。)は豊岡市市会議員、同西野清(以下「原告西野」という。)は民主青年同盟但馬地区委員長、同奥村忠俊(以下「原告奥村」という。)は出石町町会議員、同佐藤昌之(以下「原告佐藤」という。)は和田山町町会議員、同尾下秀敏(以下「原告尾下」という。)はユニゾン労働組合梁瀬支部支部長、同橋本哲朗(以下「原告橋本」という。)は兵庫県教職員組合(以下「兵教組」という。)朝来支部支部長、同上垣賢司(以下「原告上垣」という。)は兵庫県高等学校教職員組合但馬支部書記局員、同松田一戯(以下「原告松田」という。)は彫刻家、同植田友蔵(以下「原告植田」という。)は「部落解放運動の統一と刷新をはかる日高有志連合」(以下「日高有志連」という。)会長、同西本光雄(以下「原告西本」という。)は日高有志連監査、また、承継前原告西岡二郎は山東町町会議員であつた。

(二) 被告丸尾良昭(以下「被告丸尾」という。)は部落解放同盟兵庫県連合会(以下「解同県連」という。)沢支部支部長、同尾崎龍(以下「被告尾崎」という。)は同支部支部員、同安井千明及び同安井義隆はいずれも解同県連東上野支部支部員であつた。

2  被告らの本件不法行為

(一) 本件不法行為に至る経緯

(1) 原告橋本は、昭和四九年九月八日夜、自宅において、兵教組朝来支部組合員である能見美也ほか一名が兵庫県朝来郡朝来町岩津(通称元津)(以下「元津」という。)で別紙(一)記載のとおりの見出し等からなる日高有志連発行のビラ(以下「本件ビラ」という。)を配付していたところ、部落解放同盟(以下「解同」という。)の同盟員(以下単に「同盟員」という。)に発見されてその配布を妨害されたため、本件ビラを積載した自動車を放置したまま逃げ帰つたという報告を受けるとともに、右自動車を取りに行つてくれるよう依頼されたので、原告橋本宅に来ていた片山正敏らを伴い、原告植田及び同西本と一緒に同町岩津字栗尾三番地に赴いた。同日午後八時ころ、同所付近で右能見が放置した右自動車を発見した原告橋本は、運転して帰るべく同車に乗車したところ、待ち伏せていた被告丸尾の指揮する同盟員らに同車の前後を取り囲まれたりしたため、別紙(二)現場見取図(以下「見取図」という。)点付近で動けなくなつた。

(2) 一方、原告西本と同植田の乗つた車は、原告橋本が能見の車を発見したころ、見取図、両点の中間あたりで停車していたが、その直後同盟員らに車の前後を取り囲まれた。そこで、原告西本は同車を歩行速度で進行させながら見取図点付近まで至つたところ、囲んでいた同盟員から「後ろに人間がいる。車が進行したら死ぬ。」と脅されて、やむなく停車した。それと同時に、同盟員が同車の前後に車を停車させたため、同日午後一〇時ころ、同所で進行できなくなつた。

(3) 原告佐藤、同尾下及び亡西岡二郎は、原告橋本、同植田、同西本が同盟員らに取り囲まれて車中に閉じ込められているということを聞き、和田山警察署々長や同署警察官に同人らの救出を要請するとともに、様子を見るため現場に赴いた。

同原告らは、原告橋本が自動車運転免許証を携帯していなかつたため、これを届けるなどした後、同月九日午前四時ころ、原告橋本を見取図点付近に停車させた原告佐藤運転の自動車に乗り換えさせて現場を離れようとしたが、同盟員が右自動車の前後を取り囲んだりしたため、同所において進行できなくなつた。

(4) 原告橋本、同佐藤、同尾下及び亡西岡二郎は、同日午前六時三〇分ころ、車で見取図点から脱出することは不可能であると判断し、徒歩で同所から脱出することを決意し、同盟員らに左右を取り囲まれたまま、怒号、罵声を浴びつつ、また、解同が使用しているいわゆる解放車(以下「解放車」という。)から流される演説をもつて揶揄、恫喝されながら、見取図表示の朱線に沿つて見取図点まで進んだ。

一方、原告梅田、同太垣、同西野、同奥村、同上垣及び同松田は、原告橋本ら四名を救出すべく、自動車三台に分乗して、同日午前六時三〇分ころ、見取図点付近に到着した。原告奥村及び同太垣は、原告橋本ら四名の様子を見るために、右点から見取図点を経て見取図点まで徒歩で進み、そこで、見取図表示の森山功一宅付近を歩いている原告橋本らと同盟員の集団を発見したので、徒歩を早めて右集団を追尾し、見取図表示の歩道橋付近で追いつき、右集団と一体となつて見取図点に至つた。原告橋本ら四名とこれを救出すべく来た前記原告ら六名の計一〇名は合流したうえ三台の自動車に分乗し、発車しようとしたが、ここでも、右三台の自動車の前後を同盟員が取り囲み、解放車が前方を塞いだので、発車できなくなつた。右原告橋本ら一〇名は、同日午前七時ころ、自動車での脱出を断念して、見取図点付近から徒歩で和田山方向へ脱出しようとしたが、数十名の同盟員に前後左右を取り囲まれ、進路を妨害されたうえ、体を押される等して再び右点まで押し戻された。

(5) 被告丸尾は、同日午前七時ころ、「日共の手先を捕促した。この場で糾弾会を組織する。」と唱えて同盟員らに対して右原告橋本ら一〇名に対する糾弾行動を指揮扇動した。かくして、原告ら一二名に対する監禁、暴行、脅迫の本件不法行為が開始された。

(二) 本件不法行為の概要

(1) 見取図点で数十名のスクラムを組んだ同盟員らに取り囲まれた原告橋本ら一〇名は、耳元で同盟員らから大声で怒号、罵声を浴びせられ、肩をこづくなどされ、また、当日は大雨であつたため、全身ずぶ濡れの状態にさせられた。同日午前八時三〇分ころ、同所で同盟員らに取り囲まれたままの右原告橋本ら一〇名の頭上に、ビニールシートが被せられ、更に、同日午前九時ころ、南側を入り口として東、西、北を塞いだテントが右原告橋本ら一〇名を囲んで設置され、外部との接触や連絡が遮断された。右テント内では、右原告橋本ら一〇名は、ばらばらに分断され、各原告が数名の同盟員らに入れ替わり取り囲まれ、肉声あるいはハンドマイクにより大声で怒号、罵声を浴びせられたり、肩をこづかれたり、手拳で殴りかかられるなどして、監禁、暴行、脅迫を受けた。

同日午後一時ころ、テントは見取図点(見取図両点付近一帯、すなわち兵庫県朝来群朝来町岩津字栗尾三番地先国道三一二号線付近を以下「本件第一現場」ということがある。)に移動されたが、移動後のテント内でも右原告橋本ら一〇名は、前と同様に、ばらばらに分断され、各原告が数名の同盟員らに入れ替わり取り囲まれ、肉声あるいはハンドマイクで怒号、罵声を浴びせられ、監禁、暴行、脅迫を受けた。右原告橋本ら一〇名は、同日午後五時一五分ころ兵庫県警察機動隊員(以下「機動隊員」という。)により同盟員らが排除されて救出されるまでの間、若干の休息を与えられたほかは、継続して起立を余儀なくされ、終始怒号、罵声を同盟員らから浴びせられた。

(2) 原告植田及び同西本は、前記のとおり、見取図点(以下「本件第二現場」ということがある)で前後を同盟員の車で塞がれ、また、回りを同盟員に取り囲まれて進行できないまま、昭和四九年九月九日午後五時ころ機動隊員により同盟員の車が排除されて進行が可能な状態となるまでの間、監禁状態に置かれ、終始怒号、罵声を同盟員らから浴びせられた。

(三) 原告らの被害状況等

(1) 原告梅田の被害状況

原告梅田は、見取図点において、テントが設置されるまでの間に、同盟員らから耳元で大声で「お前の家捜して嫁はんや子供を連れてきて糾弾してやる」、「わしは解同やめたら殺したる」と怒号され、被告安井千明からは顔面を殴りかかられるなどされた。テントが設置された後にも、「目をつむるな」、「横むくな」、「真つすぐ向け」、「差別教育をしているだろう」などと、終始、大声で怒号、罵声を浴びせられた。テントが見取図点に移動された後、中学生、高校生が中心となつて、数人がぐるぐると原告梅田の周囲を回り、かん高い声で怒号、罵声を浴びせた。一度小用のためテントから出た際も、二名の同盟員がついてきて監視していたため、脱出できなかつた。機動隊員に救出される際、回りを取り囲んでいた同盟員に足や尻を蹴られ、顔面を殴打されて鼻血を出した。こうした暴行の結果、一〇日間の治療を要する両感音系難聴、耳鳴の傷害(症状)を負つた。

(2) 原告太垣の被害状況

原告太垣は、本件第一現場において、同盟員らからハンドマイクを耳元に当てられ大声で叫ばれたり、「赤犬」「差別者」と怒号され、あるいは、数回手拳で殴りかかられて顔面の直前で止めるという暴行を受けた。こうした暴行の結果、一〇日間の治療を要する両感音系難聴、耳鳴の傷害(症状)を負つた。

(3) 原告西野の被害状況

原告西野は見取図点において、テントが設置されるまでの間に、同盟員らから「こら差別者」「お前ら帰さへんぞ」、「殺したろか」などと繰り返し怒号、罵声を浴びせられ、また、背後から体当りされたり、胸や肩で体を押されるなどされ、テントが設置された後も、ハンドマイクや肉声で、耳元近く「こら差別者殺したろか」、「お前ら今日帰せへんぞ」などと繰り返し怒号、罵声を浴びせられた。機動隊員により救出される少し前には、若い女性に鼻筋に手拳を当てられ、「名前をいうてみい、殺したろうか、目を覚ませ」と脅迫された。被告安井千明からは、ハンドマイクを耳元に当てられ、あるいは肉声で怒号されたり、体当りや胸や肩で体を押されるなどされた。被告安井義隆からはハンドマイクで、被告尾崎からはハンドマイクあるいは肉声で、怒号、罵声を浴びせられた。こうした暴行の結果、約一〇日間耳鳴がする傷害(症状)を負つた。

(4) 原告奥村の被害状況

原告奥村は、テントが設置されるまでの間に、同盟員らから「差別者」、「赤犬」などと怒号、罵声を浴びせられ、テントが設置された後も一層激しく浴びせられた。テントが見取図点に移動された後も繰り返し「裏切者がここにおる」と怒号、罵声を浴びせられた。二回の小用の際にも、二、三名の同盟員に監視されており、脱出することは不可能であつた。被告安井千明と同尾崎からは、ハンドマイクを耳元に当てられて怒鳴られた。こうした暴行の結果、約四日間耳鳴がする傷害(症状)を負つた。

(5) 原告佐藤の被害状況

原告佐藤は、テントが設置されるまでの間に、同盟員から傘についた雨滴を首筋に入れられ、被告安井千明から「町会議員やめさしたろか」、「女房も子供もここへ引つ張つてきて、一緒にやつたろか」、「商売つぶしてやろうか」、「解放同盟やめたら殺してやる」などと怒号、罵声を浴びせられた。テントが設置された後は、ハンドマイクを耳元に当てられ前同様に怒号、罵声を浴びせられたうえ、八ミリカメラでこの状況を撮影され、足を踏みつけられた。昼食に差し入れられた食事も食べることができなかつた。こうした暴行の結果、一〇日間の治療を要する両感音系難聴、耳鳴、頭痛の傷害(症状)を負い、耳鳴は一ケ月以上も続いた。

(6) 原告尾下の被害状況

原告尾下は、本件第一現場において、同盟員らから、「娘をやつてもたろか」と脅迫されたり、ハンドマイクを耳元に突きつけられ、怒号、罵声を浴びせられた。被告丸尾の指揮下にあつた原告尾下の勤務している会社の同僚や同級生からも、怒号、罵声を浴びせられた。こうした暴行の結果、三週間の治療を要する両感音系難聴、耳鳴の傷害(症状)を負い、耳鳴は三週間以上続いた。

(7) 原告橋本の被害状況

原告橋本は、同盟員らからハンドマイクを耳に被せられて怒号、罵声を浴びせられた。原告橋本は、前日の夕方から食事をとつていなかつたうえ、睡眠も取つていなかつたので、テントが見取図点に移動された後の午後二時ころ、立つていることができなくなつた。同盟員らは原告橋本を脇から抱えて立たせたり、足でこづいて起立を命じたりしていたが、その時、同盟員が前方から体をぶつけてきたため、原告橋本は転倒した。原告橋本は、立てなくなつて段ボール紙の上に横たわつていたが、この間も、同盟員らからハンドマイクを耳に当てられて怒号、罵声を浴びせ続けられ、ついに意識を一時失うに至つた。被告丸尾は、パイプ椅子に座らされていた原告橋本の足を踏みつけて、「くたばつておらん、眠いだけや、もつとやれ」と取り囲んでいた同盟員に命令した。その間、原告橋本は、疲労のため吐き気を催し、食事をすることができず、また、一度小用にテントから出た際も、同盟員が監視していたため脱出できなかつた。こうした暴行の結果、下痢、耳鳴の傷害(症状)を負つた。

(8) 亡西岡二郎の被害状況

亡西岡二郎は、本件第一現場のテントの中で同盟員らからハンドマイクを耳元に当てられ、「こら共産党」と怒号、罵声を浴びせられ、足で蹴られたりこづかれたり、黙つていると更に「おしかつんぼか」と怒号、罵声を浴びせられた。また、小用のためにテントから出た際も、同盟員が監視していたため脱出できなかつた。その間、被告安井千明からは「お前はしぶとい奴や、にくい顔をしとる、割木で殴り殺したろか」と脅迫され、被告尾崎からはハンドマイクを耳元に当てられて怒号、罵声を浴びせられた。こうした暴行の結果、両感音系難聴、頭痛の傷害(症状)を負い、約二週間右症状は継続した。

(9) 原告上垣の被害状況

原告上垣は、見取図点において、テントが設置されるまでの間、同盟員らから、「赤犬」、「差別者」、「日共」、「殺したろうか」、「今日は帰さへんぞ」と脅迫されたり、ハンドマイクを耳元に当てられて前同様に怒号、罵声を浴びせられ、テントが設置された後も、肩でこづかれたり顔面に殴りかかられるなどされた。一度小用のためにテントから出た際も、二名の同盟員が監視していたため脱出出来なかつた。被告安井千明からは、殴りかかられたり、ハンドマイクを耳元につきつけられて高い金属音を出されたり、大声で怒鳴られたりした。こうした暴行の結果、耳鳴の傷害(症状)を負い、二日間位続いた。

(10) 原告松田の被害状況

原告松田は、テントが設置されるまでの間、同盟員らから「殺したろうか」、「大根みたいに刻んだろうか」、「子供と一緒にやつてやる」、「電話かけて寝らしたらへん」などと脅迫され、更に、耳を覆つていた帽子をめくり上げられてハンドマイクを耳元に当てられて大声で怒号、罵声を浴びせられ、雨を頭や首筋にかけられた。また、テント内では写真を撮られたり八ミリカメラで撮影された。小用のためにテントから出た際にも、同盟員らが大勢いたため、脱出できなかつた。被告安井義隆からは、同盟員らが怒号、罵声を浴びせる中、説教調に話しかけられていた。こうした暴行の結果、数日間胃の具合が悪く、肩がだるく仕事が手に付かなかつた。

(11) 原告植田、同西本の被害状況

原告植田と同西本は、本件第二現場において車中に閉じ込められたまま、「もう少ししたら千人位来る」、「カレイの日干しのようにしてやる」などと怒号、罵声を浴びせられ、車をゆさぶられたり蹴られたりしながら「ひつくり返したろか」と脅迫された。右原告両名は、前日の午後九時から九日の午後五時過ぎまで一切飲食をとることができず、また、両名共、事件当時血圧が高かつたため、重大な肉体的、精神的被害を受けた。

3  被告らの責任

(一) 被告丸尾は、前記被害状況を充分知悉しながら、「糾弾闘争」の名の下に同盟員らを指導、指揮した。すなわち、本件不法行為は、被告丸尾の「この場で糾弾会を組織する」との指示により開始された。被告丸尾は、解放車のマイクを使つて糾弾の中止、再開を指示したり、スクラムを組むこと等の指揮をした。被告丸尾が解同各支部の代表者会議を招集して「作戦」を立案し、経過報告をする等、全体の指導をしたことは明らかである。また、原告植田及び同西本に対しても、「植田の車の見張りだけ残つて全員集まれ」と指示したことから明らかなように、右原告両名に対する不法行為を指示した。更に、被告丸尾自身、原告橋本に対し、前記(2(三)(7))のとおり、暴行を加えた。

(二) 一方、被告尾崎、同安井千明及び同安井義隆も、前記一2(二)(本件不法行為の概要)の状況を充分認識しながら、糾弾の名による監禁、暴行、脅迫を加える意図のもと、前記(一2(三))のとおり本件不法行為に加担したものである。

(三) すなわち、被告ら四名は、昭和四九年九月九日午前七時ころ、本件第一、第二現場において相互に意思を相通じ、ほかの同盟員らとも共謀のうえ、本件不法行為に及んだものである。よつて、被告らは、民法七一九条一項前段の規定により共同不法行為者としての責任を負い、連帯して、原告梅田、同太垣、同西野、同奥村、同佐藤、同尾下、同橋本、同上垣、同松田、同植田、同西本及び亡西岡二郎(以下「原告ら一二名」という。)が本件不法行為により被つた後記損害を賠償すべき義務がある。

4  損害

(一)(1) 慰謝料

本件第一現場における本件不法行為は、午前七時から午後五時一五分ころまで約一〇時間余に及び同所にいた原告橋本ら一〇名の身体、行動の自由を奪うという内容のものである。また、原告植田及び同西本は本件第二現場において前日午後一〇時ころから、翌日午後五時過ぎころまで監禁状態に置かれた。この間、原告ら一二名は「糾弾」の名の下に同盟員らから執拗に怒号、罵声を浴びせられた。特にテント内の原告橋本ら一〇名に対しては寄つてたかつて暴行、脅迫を加え、同盟員の方は交代しても右原告らは長時間にわたつて終始これを耐え忍ばねばならなかつた。

別紙(二)

現場見取図

同盟員の吐く言辞は、原告ら一二名及びその親族の生命、身体、財産、営業に対する害悪の告知であつて、およそ部落解放運動とは無縁の、精神的苦痛を与えることを目的としているとしか理解できない類のものであつた。

このように、原告ら一二名は、本件不法行為によつて、長時間にわたつて、身体、行動の自由を奪われたうえ、自己及び家族の身体、生命、自由の危険を感じさせられ、著しく名誉感情を傷つけられた。また、原告梅田、同太垣、同佐藤、同橋本及び亡西岡二郎は、前記(2(三))のごとき傷害を負つた。

本件不法行為によつて原告ら一二名各自の被つた肉体的、精神的損害を金銭に評価すれば各五〇万円を下らないものである。

(2) 弁護士費用

原告ら一二名は、本件訴訟を原告ら訴訟代理人に委任し、その報酬として各自五万円宛支払う旨約した。

(二) 亡西岡二郎の損害賠償請求権の相続

亡西岡二郎は昭和五二年一二月二八日死亡し、原告西岡紀子はその妻として、原告西岡太郎、同西岡達郎、同西岡充郎及び同西岡麦穂はいずれもその子として、それぞれ法定相続分に従つて、亡西岡二郎の有する右(一)(1)(2)の合計五五万円の損害賠償請求権を、原告西岡紀子においては一八万三三三六円、原告西岡太郎、同西岡達郎、同西岡充郎及び同西岡麦穂においては各九万一六六六円宛、共同相続した。

5  結論

よつて、被告ら各自に対して、不法行為による損害賠償請求権に基づき原告西岡紀子は一八万三三三六円及び内金一六万六六六八円に対する不法行為の日の後である昭和四九年九月一〇日から支払済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の、原告西岡太郎、同西岡達郎、同西岡充郎及び同西岡麦穂はそれぞれ九万一六六六円及び内金八万三三三三円に対する前同日から支払済まで同割合による遅延損害金の、その余の原告らはそれぞれ五五万円及び内金五〇万円に対する前同日から支払済まで同割合による遅延損害金の各支払を求める。

二  請求原因に対する被告らの認否及び主張

1  認否

(一)(1) 請求原因1(一)は知らない。

(2) 請求原因1(二)は認める。

(二)(1) 請求原因2(一)(5)のうち被告丸尾が「この場で糾弾会を組織する。」と言つたことは認める。

(2) 請求原因2(二)は否認する。

(3) 請求原因2(三)のうち被告らの行為に関する原告ら主張の事実は否認し、その余は知らない。

(三) 請求原因3のうち被告丸尾が「この場で糾弾会を組織する。」といつたことは認めるが、その余は争う。

(四) 請求原因4は知らない。

2  主張

(一)(1) 糾弾会は、当初国道三一二号線の道路上で、次いでテント内で行なわれ、午後五時過ぎまで続けられた(但し、途中で休憩をとつた。)。

糾弾会に参加した者は最終的には約二〇〇名にものぼつた。差別キャンペーンに対する被差別部落の人々の怒りは激しかつたが、また、突発的な事態の発生ではあつたが、糾弾は最後まで整然と続けられたのである。

同盟員らは、右国道上あるいはテント内において、そこにいた原告橋本ら一〇名に対し、本件ビラによつて部落民が如何に苦しい思いをしているか、また、一般地区の住民の中に部落差別感情がいかに増幅しているかを訴えたが、右原告らはかたくなに沈黙するばかりであつた。

(2) 被告丸尾、同尾崎及び同安井千明は、右糾弾の場に午前七時ころからいたが、被告安井義隆は、右糾弾の場には午前九時ころ到着したのであり、昼前後にもかなりの時間不在の時間帯があつた。

(3) 同盟員らは本件第二現場にいた原告植田と同西本に対しては糾弾を行なつていない。同盟員らの右原告両名に対する意識は稀薄であり、同原告らが自動車から出ることを妨害するようなことは、本件第一現場で糾弾が始まつた後は全くなかつた。いわんや同原告らに対する説得活動もなかつた。ただ、同原告らが自ら自動車内に閉ぢ込もり、表に出ようとしなかつただけである。同原告らが車外へ出なかつた理由は明確ではないが、差入れにきた者から直接物を受け取つたりしており、少なくとも何らかの不安を抱くような客観的状況はなかつた。

(二) 仮に原告ら一二名のうちに耳鳴の症状を経験した者があつたとしても、それはごくささいなものであつて、医者の治療を受けることすら必要としない程度のものであつた。

三  抗弁

本件における被告らの行為は、原告ら一二名の差別行為に対する糾弾行為として行われたものであつて、正当行為として違法性が阻却されるべきである。

1  糾弾行為の本質

今日においても部落民に対する部落差別事件が数多く発生しているが、これら差別行為に対する救済措置は何も保障されていない。このことは、既に、同和対策審議会答申においても指摘されており、部落差別に対する国の責任と法的救済の必要性はかねてからしばしば説かれているところである。このように法的に保護されていない部落民にとつては、自発的に立ち上がつて、差別者に対して働きかけその指導と教育をする以外に部落差別を解消する方法はない。

かかる意味で、糾弾行為は、その重要な手段である。また、糾弾行為は、ひとつひとつの差別事件の糾弾を通して、差別者と部落民との双方の人間改革を行い、差別をしない、万人の協力者を作り、日本の真の民主主義の確立を目的としている。糾弾行為は、勿論、言論の自由の具体的行使であるが、単に差別を文書や口頭で批判することだけに尽きるものではない。被差別者が差別者に対し、抗議し、面談し、差別に対する「見解の説明と自己批判」とを求めるものである点で、単なる批判を越える要素を有している。差別に対する批判しか許されないのであれば、多くの場合、差別者はそれを読み流し、あるいは聞き流すだけで終つてしまい、差別意識の克服、自己改革には至らず、結局部落解放の道は閉ざされてしまわざるをえない。差別に対する集団的な抗議、説得、呼びかけ等の行為は、差別根絶のための必要かつ有効な手段として、その正当性が認められるべきである。

2  原告ら一二名の差別行為

(一) 差別性判断の視座

元津における被告らの糾弾行為は、原告橋本らが配布していた本件ビラが差別を拡大助長するものであるから配布しないように求めたことに端を発している。したがつて、本件ビラが部落差別をなくすという方向性をもつたものではなく、部落民に対する偏見を助長する内容であつたか否かの点を明らかにすることが重要である。してみると、その前提として、部落差別に対する十分な認識が是非とも必要とされるのである。また、原告らのうち、原告植田及び同西本は日高有志連のメンバーであり、右以外の原告も日本共産党と関係があると思われる。このことは、取りも直さず、本件ビラの配布等一連の行為が、日本共産党の解同に対する誤つた認識に基づき、一定の方針に従つて行われた行為であることを何よりもよく物語つているものである。その意味において、日本共産党が解同の運動に対して、どのように対処してきたのかということの関連の中で、本件を理解しなければ、そのもつている意味を誤まることになる。

(二) 南但馬における部落差別の現状

南但馬とは、行政区画でいうと、兵庫県朝来郡、同養父郡を中心とする地域であり、養父郡の四町、すなわち、八鹿町、養父町、大屋町、関宮町と、朝来郡の四町、すなわち、生野町、和田山町、山東町、朝来町の八町からなる地方を指すが、そこには被差別部落が一九部落存在し、人口は約五〇〇〇人といわれており、南但馬の人口の六・七パーセント以上、世帯数の七・三パーセント以上を占めている。

南但馬は、山村地域であるがために、山が非常に多く、山間や川の両岸ぐらいにわずかな農地がある地域であり、もともと、部落であるとなしとにかかわらず、平均反別が約六反といわれ、一戸当りの所有田畑が極めて少ない農村地域である。右の如くこの地域全体において既に所有田畑が少ないところ、それが部落になると、その所有田畑の少なさは極に達し、一戸当り平均約一反といわれている。したがつて、被差別部落の住民は農業だけでその生活を行ない得ない状況にあり、経済的、文化的に劣位に置かれている。

南但馬における部落差別の現状を考察する際に、更に忘れてはならないことは、第一に、南但馬の地域全体が持つ封建性故の、すなわち、極言すれば所有田、所有山林の広狭によつて、その人の地域での社会的地位が決定されかねない風習が残存している地域であり、封建遺制たる部落差別に対する根強さがある点である。それは解放運動の進んだ地区において、少なくとも表現上の差別(直接的な蔑称)に対する糾弾がないのに対し、南但馬においては未だ同様のことが糾弾の対象になつているということに表われている。第二に、南但馬における部落が小集落であるが故に部落の問題を町行政等に自然と取り上げさせる程の政治的な力がなく、それ故、行政においては部落差別の解消へ向けての努力が十分に行なわれていないという点である。

(三) 南但馬における日本共産党の動き

(1) 南但馬においては日本共産党と部落解放運動の結びつきは全く皆無であつた。

強固な保守意識の中で日本共産党の活動それ自体が非常に困難であり、それでなくとも困難な部落解放運動について全く手がつけられないという状況であり、日本共産党は組識的には全く部落解放運動の実践歴を有していない。

わずかに片山正敏(以下「片山」という。)を中心とする兵庫県立八鹿高等学校(以下「八鹿高校」という。)のごく一部の教師からなる党員グループが昭和四五年ころから校内での同和教育、あるいは地域の学習会に参加するという形での関与をしていたに過ぎない。ところが、片山らは解同と日本共産党との対立状況の中で徐々にその党派性を同和教育の中で出しはじめた。そして、片山を中心とするグループは、日本共産党の全国的な規模での、融和主義への傾斜と軌を一にする動きの中で、原告橋本あるいは同植田との接触を組織的に図ろうとするに至るのである。

(2) 日本共産党と原告橋本との結びつきは、具体的には有志連ニュースという形でなされた。しかも、驚くべきことに、有志連ニュースの一号から三号まで、更に本件ビラもすべて日高有志連のメンバーでもない原告橋本の手で作成されており、片山ら八鹿高校を中心とする党員グループも、日高有志連結成の呼掛け文の草案を片山において作成し、そのほかガリ切り、ビラ配布を担当しているのである。要するに、日高有志連発行のビラ(以下一括して「有志連ビラ」ということがある。)は、原告橋本が作成し、日本共産党員グループが配布をするという形でなされており、原告植田らが属する日高有志連は単なる名義貸しという実態であつた。

原告橋本、片山らがこのような形で有志連ビラを作成、配布したのは、原告植田が部落民であるということを利用して、日高有志連という隠れ簑を利用し、部落民の団体のビラであるからどんなことを書いてもかまわない、また、どんなことを書いても部落民の作成名義である以上解同から糾弾されることはないという極めて卑劣な意図によるものなのである。本件ビラの作成者である原告橋本は、南但馬の根強い差別意識、部落はこわい、汚いという意識を十分に知つているからこそ、この差別意識を徹底して煽るために暴力ということを極端に強調したのであり、それに対する解同による糾弾を予測していたからこそ日高有志連の名を利用したのである。

(四) 有志連ビラの虚偽性及び差別性

(1) 和田山中学校の確認学習会をめぐるビラの虚偽性

昭和四九年当時、和田山中学校の教師は、部落の親たちの受けてきた差別の実態、現実の差別の実態を教え、差別に負けない子供をつくろうとする教育は、教師のやるべきことではなく、教育委員会がやるべきことであつて実施できないという態度をとつていた。そのため、部落と育友会の役員が集まつて相談した結果、学校に対し話し合いを申し込むことを決め、校長らにその希望を伝えたところ、学校側より、後日、開催日時については五月一五日でよいという連絡があつた。一方、和田山中学校の生徒のなかから部落解放研究会(以下「解放研」という。)をつくつてほしいという声が出され、同年四月、同校教職員らによつて解放研の設置が許可された。

同年五月一五日、部落の親達十数名は、期待を込めて学校に赴いたが、校長、教頭、部落出身教師一名が参加しただけで、話し合いはできず、約一時間半で解散した。五月末の第二回目の話し合いは、校長の提案に基づいて開かれたが、第一回目と変らず、この時も一時間程度で解散した。七月初めの第三回目の話し合いも、校長の提案に基づいて開かれたが、教師の参加が数名増えただけで、中身の話には入れなかつた。そのため、二つの部落の代表五名は学校に出向いて教職員に対し話し合いへの出席を要請したが、そのとき、「同盟休校させる」「テントを張つて一人ずつ引つぱり出して糾弾する」「授業をできなくさせる」などということは言つていない。

なお、「確認学習会」という呼称は、第一回目の話し合いの時、教師から、次回より確認学習会と呼びましようといつたので使用しているにすぎず、部落の人々の意識としては「話し合い」であつた。

前記経過を経て、第四回目の話し合いは、同月一六日、校長より予め日時の通知があり、これに基づき持たれることとなつた。この時は、教師も四〇人余り出席し、全体で二〇〇名程であつた。参加者は、机を二列はさみ、両側に分かれて椅子に座り、司会は、地元部落の代表である谷口登喜夫が行い、七時半より始められた。同人は出席した教師らに対して「過去に行なつてきた同和教育について、ひとことずつ発言をして下さい。手を挙げて下さればいつでも発言を認めます。」ということを言つて、話し合いを始めた。教師らは、当初は口が重いということはあつたが、部落の人達が何を教師に対して希望しているのかということを親達が発言していくうちに、やがて話しはじめるようになり、積極的に発言し、「組合が、怖いものやというので怖いものと思つていたが、そうでないことがわかつた。」「遠慮なしで言わしてもらいますが、やつぱり部落の子は言葉が悪い、態度が悪い、勉強ができへん。」などといつた日常思つていたことを率直に口にし、そのことと部落差別とのつながりを部落の人々が説明をし、子供達をどのように指導していけばよいのかということにまで話が進展していつた。話し合いに出席しなかつた理由について追及がなされたというようなことはないし、司会者は、時間が遅くなることを気にして、幾度となく教師らに日時を改めましようかと尋ねたところ、教師らから継続しようということであつたので、休憩しながら続けていつたのであつて、翌日午前四時半ころ話し合いは友好的な雰囲気の下に終つた。

話し合いの途中、一人の女性教師が帰つたが、それは同月一六日九時過ぎの休憩中、休憩室でしんどいと言つたので、翌日の授業に差し支えてはという配慮を働かせて、校長らに話し帰つてもらつたのである。その時に、教師らが夕食をとつていないことが分り、部落の人達は家へ帰つてご飯を炊き、梅干などを持つてくるなど、教師らの食事を準備し、食べてもらつたりした。有志連ビラに記載されているような、「気分が悪くなつて倒れるというようなこと」や「先生を机に載せて担ぎ出す」といつたことはもちろん、青年が机を越えて出ていつて、教師らの耳元で大声を出すなどという状況も全くなかつた。「意識を失うまで」「医者を呼べの声」「一〜二時間わめきたてる」などの表現は、原告橋本のまつたくの悪意に満ちた作文である。解放研生徒が、教師の教育姿勢が悪いと思つた場合にそれを指摘することは当然であり、それを、「教師をつるし上げるため」に行なつていると記載しているのは、解放研生徒の願いを踏みにじり、解放研生徒の行動について誤解を与えることになることは明白であつた。また、解放研生徒が、あちこちの確認会に出席して、目を赤くして登校するというようなことももちろんなかつた。

以上のように、和田山中学校の確認会をめぐる有志連ビラの記載内容は、すべて虚偽である。

(2) 生野小学校の確認会をめぐるビラ(三枚。但し、兵教組朝来支部発行のビラ二枚を含む。)の虚偽性

右確認会が持たれるに至つた経過は次のとおりである。すなわち、「南真弓は汚ないし生野町ではない、僕の母さんが言つてたからまちがいない。」「南真弓の子がさわつたらくさるからさわるな。」「あんたらまだ学校きよるんか、早う出ていつてくれたら気が晴れるのになあ。」等々のことばに傷ついた子供が、国語の授業で行なわれた自由題の作文にその事実を書き、担任や教頭に救いを求めた。ところが、教師らは「あやまちは誰にでもある。南真弓の子はことばが悪いから差別されてもしかたがない。そんな事いうから差別されるんや。おまえらオーバーすぎる。」等と答えて逆にその子供をたしなめたため、その子供は、学校に行くのを嫌だといつて登校拒否をするに至つた。子供から登校拒否の理由を聞いた親達は大いに驚き、教師らに懇談会を申し入れ、教師らがどのように指導をするつもりなのかを尋ね、指導方針を明確にしてもらうことを期待していた。ところが、親の期待に反し、懇談会すら開かれず、教師らの指導方針は何ら示されなかつた。当初三人の子供の親達だけでしたこの申し入れが無視されたため、その後、生野小学校に子供を通わしている部落の親全体が協議して申し入れを行なうようになり、それでも進展がなかつたので、解同南真弓支部からの正式申し入れという形式を踏んで確認会の申し込みを行うに至つた。その結果、確認会は、四回にわたつて行われたが、はじめの一、二回は教師の出席が少なく、三回目に至つて、ようやく大半の教師が出席した。解同側は、南真弓支部の者が中心に毎回数十名ということで、いずれの時も中央に机をはさんで、双方とも座つて進められた。確認会においては、前回欠席した教師に対してその理由を尋ねることはあつたが、それにあまり時間をかけるのではなく、子供達の作文内容、子供達の学校での生活、教師らが南真弓の子供達の置かれている状況をどのように理解して指導したのか、といつたことが問いかけられていつた。福井教諭については、同和教育の中心になり南真弓の地区にもよく出入りしていたので、皆が大きな期待をもつて質問をしていたが、前回の欠席は体の具合が悪かつたからであるというので、一〇分ないし二〇分で終つている。確認会は、司会者より、体の具合の悪い人は遠慮なく申し出て下さいといい添えて始められており、福井教諭の場合、その健康状態について事前にはなにも知らされておらず、福井教諭の具合が悪くなつたのは、福井教諭に対する質問が終つてしばらくして後であつた。右時点で確認会は中断し、別室に移つてもらい、休養してもらうとともに、主治医への手配、家族への連絡、病院への搬送といつたことがらが、校長を中心に進められたのである。

右一連の確認会を通して、生野小学校の教師集団の同和教育に対する姿勢に問題があつたことが浮き彫りにされた。

三回目はまとめを行つて終了し、四回目は、関係していた父兄らの出席もえて、確認会は終了した。いずれの確認会も、おそくとも一二時過ぎには終了し、皆が翌日の勤務に支障なく就けるように配慮されていたことはいうまでもない。また「確認書」といつたものが教師より出されたことはなく、右文書を出すように要求した事実もなかつた。

確認会においては、南真弓の親達が思つていることが十分に伝わり、それ以降、親達も教師らの指導を信頼して、同校での取り組みが進められていつたのであつた。

以上のとおり、有志連ビラの生野小学校の確認会についての記載内容は、そのほとんどが事実に反している、とりわけ四年二組の親達の行動、子供らの状況に関する部分の虚偽は問題である。「南真弓部落の同和対策委員出席のもとでは、確認会出席組の両親らは畳にひたいをすりつけて『悪うございました』とはいつくばつた」や「雨が降つたので、校長や教頭が子供を迎えに行つた」というような記載にいたつては、部落の親達の願いと全くかけ離れたところで、一般地区の人々の差別意識をかきたてていく効果しかないことは明白であり、少々の誇張といつた次元の内容ではない。

(3) 朝来中学校の確認会をめぐる本件ビラの虚偽性及び差別性

(ア)(a) 朝来中学校の同和教育及び確認会

(ⅰ) 同中学校の同和教育は、校内で問題を起すグループが部落の子供を引き入れてこれを利用しており、部落の生徒の中にもその傾向に乗じている風潮があつたのを問題視し、その主要な原因が同和教育の欠如にあると認識したところから出発している。

既に、昭和四五年七月、同校の校長、教頭、中川小学校校長の三名が沢地区の代表者と話し合いを始めている。

教師らは、沢地区に設けられた希望学級に全員参加して学習指導を行なつていたが、とりわけ部落差別を中心とした学習を重ねるうちに、自らの意識を高めるようになり、その成果を校内での同和教育にも生かそうとしていた。

昭和四七年に、足立教諭が中心になつて同和研究クラブが結成され、同四九年一月になると右クラブは発展的に解消され、希望学級に出席していた生徒らが中心になつてあらたに解放研が結成された。

そのころになると、同中学校教師らは、生徒らの自主的な立ち上りが解放への意欲を高め、教育全般にも好ましい影響を与えるものであるという共通の認識に到達していた。

(ⅱ) 昭和四九年七月に行なわれた朝来中学校における校内確認会は、前記希望学級において、能見教諭が汽車がなくなるから帰らせてもらうと司会の足立教諭に伝えて同教諭がこれを許可して帰したということが、開催のきつかけとなつたものである。右各教諭の態度は、日頃希望学級の主体は生徒であるといつている姿勢に反するという、生徒らの指摘に対し、同中学校の教師らは、右各教師らの態度の奥底に同和教育をやつているという姿勢が潜んでいることに気付き、解放研生徒らの要請を受け入れた。

確認会は、解放研生徒の司会で約二四〇人の解放研生徒と、ほぼ全教師が参加して、同月二二日午前八時半ころから午後八時ころまで行なわれ、その場には卒業生である部落の青年も何名かいたが、ただ見守つているだけで、解放研生徒らもこれらの青年に対して何の相談もしなかつた。他校の解放研の生徒もいつもと同じように参加していたが、生野中学校の夜久教諭だけが、一〇分ないし一五分遅れてきた。同教諭は、遅れてきた理由を問う生徒らに対し、「何をがたがたいつているんだ」という態度で、忙しい中を他の先生がきていないのにやつてきたのに何を文句つけるんかという意味の答えを行なつた。「してあげている」という意識が露骨な同教諭の態度に、生徒らが怒りの声をあげたのは当然であつた。この席上でも足立教諭は「ここまで引つ張つて努力してきたのに、なぜわしを確認会にかけるんだ」という気持が強く出ていて、例えば、会場で拾つた紙切れを持ち出し、これをつきつけて、飴を食べて確認会に臨んでいる者がいるといつて逆に高圧的な態度に出たり、生徒らが同教諭に対して望んでいることがらを十分知つていながら、それを認めまいとして、論点をはずそうとする卑怯な態度を取つたりした。これに対し、解放研の生徒らは、教師らに同和教育を進めて貰ううえで「してあげる」という意識がある限りは、生徒は卑屈になるし、教師の側にも生徒を無視する姿勢が生まれてくるということを、毎日の学校生活の中で体験をまじえながら説明した。その間、解放研の生徒らが、夜久、足立の両教諭の周りを取り囲んでぐるぐると回るということもあつたが、それも会話をはさみながらの極く短いものであつた。朝来中学校の教師らは、言葉で抑えつけることを避け、時間が長くなるのは生徒らの訴えの意味が理解しきれない教師らにも一半の責任があるとの自覚のもとに、生徒らの自主性に任せて、最後までその席に留まつたのである。

(b) 本件ビラの虚偽性

本件ビラは、あまりにも虚偽が多い。のみならず、その虚偽記載は、目的意識的に行われており、記載内容を次のように分析することができる。

第一は、解同による暴力的介入というイメージをつくろうとしている部分である。「生き地獄」「サジスト的発想」といつた扇情的なことばや、「県連行動隊直轄下」「県連行動隊指導の解放研」「行動隊の指揮」「青年行動隊指令」といつた刺激的なことばを随所に散りばめている。第二は朝来中学校の教育実践に対する信頼感を崩そうとしている部分である。「生徒が狂暴化」「父母は防衛上塾にはしり」「高校受験はばらばら落ちる」「ものもいえず悶悶とする教師」「涜職教師」といつた誤つた文言は、一般地区の父兄生徒をもまき込んだ解放教育を不可能にし、ひいては部落に対する嫌悪感情、差別感情を助長することとなる。第三は、朝来中学校の解放教育について誤つた情報を与え、誤つた同和教育路線を進めようとする部分である。「県教委が県下一、全国まれだとほめた」などは揶揄以外の何ものでもない。また、解放研の生徒が主張もしていないことを、あたかも主張しているかのように記載し、解放研の考え方に誤解を与えようとしている。第四は、朝来町の同和行政に対する非難が強まることを目的としている部分である。朝来町が解放行政の推進という立場より行なつている各集落への啓発のための会合を「よなよなくり出す役場の職員行動隊」と表現することは、その内容において誤解を与えることは明白であり、虚偽といわざるをえない。

(イ) 本件ビラの差別性

部落差別は、実に重たく、部落に住む一人一人の肩にのしかかつている。「部落はこわい」「部落の言葉は汚い」「部落は何をするかわからない」等という部落に対する差別意識は、部落出身の人々をして部落に生まれたことを「傷」として生きていかせているのである。しかしながら、部落解放運動は部落に生れたことを「傷」として生きることを拒否し、逆に部落に生れたことを誇りとして生きていこうとする人々の運動であり、また、解放運動に参加する中で人々はそのように変革されていくのである。

確認会、糾弾会での発言が激しい口調をもつてなされたとしても、その根底にある、部落差別により日々人間の尊厳を侵され続けてきた人々の苦しみ、悔しさに思いをいたすならば、それも当然であることに気付かなければならない。

しかるに、本件ビラに用いられた表現、例えば、「この世の生き地獄」「教師をリンチする朝来中学校内確認会」「ロボット校長が見守る中でサディスト的発想で太幸教頭が指導し、教頭、主事になりたい若干の涜職教師をあやつり」「繰り広げられる地獄絵図」「生徒は凶暴化する者、恐れおののく者」「ものも言えず悶々とする善良な教師を恐怖のどん底におとしいれ」等という文章は一体どう評価すればいいのであろうか。このような表現を何のために使つたというのであろうか。これが朝来中学校の状況を教育的立場から「批判」する文書といえるのであろうか。このような文章は、何らの節度のない、不真面目な「誹謗」ないし「中傷」の文書であり、人の劣情を煽動する下劣な文書としかいいようがないのである。優に名誉毀損罪に該当する表現を含む違法文書である。

本件ビラが差別文書であるというのは、「部落はこわい」「部落民は何をするかわからない」という社会意識としての差別意識を明確に念頭において、それを積極的に煽り、反解放運動の宣伝をしているということにある。仮に事実報道として記載されている部分が事実としても、それを「この世の生地獄」、「教師をリンチする」等と表現することは不適切であり、許されるべきではない。一般にこの種のビラは見出しなどの部分が読む人々に強烈な印象を与えるものであり、詳細な内容それ自体はすぐに忘却されてしまうものである。本件ビラをみた南但馬の人々が、解同が子供達を使つて先生をリンチした、そのありさまはこの世の生き地獄であつたという鮮烈な印象を受けることは明白である。そしてこの印象は社会意識としての差別意識が迷信、うわさ等で形成されたように、人の口から口へと、新たな「部落伝説」として何十年にもわたつて伝えられ、人々の差別意識を強化する「事実」として用いられ、差別意識を強化することは明白である。

部落の人々にとつて、本件ビラは全く傍若無人の文書というほかない。その内容は、教育に対する部落の父母、子弟の熱い願いとそれにこたえて真剣に同和教育に情熱を注いでくれた朝来中学校の教師に浴びせられた不真面目な中傷でしかない。部落を校区に持つ学校の困難性、特に教師達が右学校への転任を望まない状況が恒常化している中で、常につらい思いをし、だからこそ逆に教師を大切にしようとしている部落の父母の思い、更に子供達が部落に生まれたことを「傷」にするのでなく、誇りとして生きるように願つている部落の父母の思いを踏みにじる不真面目な中傷であり、重大な差別行為として怒り心頭に達するのは当然である。

部落の父母の教育に寄せる真剣な願いは厳しい部落差別の中から生じたものである。このような父母の思いを認識しているのなら絶対に本件ビラの如き表現は使えない筈である。本件ビラのような差別ビラが配布されれば、それによつて読者の差別意識が助長されることは明白であるから、その配布行為を阻止し、本件ビラの引渡しを求めることは当然許容されるべきことである。そして引渡しを拒否し、なおも配布をしようとする人々に対して、その中止を求めるために「説得」以上の集団による抗議を行なうことも違法視されるべきではない。

(五) 本件ビラ配布に対する糾弾行為

(1) 本件ビラの配布行為

本件ビラの、別紙(一)の記載は原告橋本が起案し、これを日高有志連に流したものである。本件ビラは、約二万枚印刷され、内一万六〇〇〇枚が原告橋本に渡された。そして、南但馬での新聞折込の手配は同原告がした。本件ビラの差別性は、その記載内容からして、誰の眼にも明らかであり、朝来町職員、朝来中学校教師、同盟員らの手により、新聞折込が未然に防がれたが、原告橋本は、昭和四九年九月八日、兵教組朝来支部の組合員のなかから同原告に同調する者を動員して戸別配布を図つた。

原告橋本は、同日夜、本件ビラを積んだ自動車が同盟員らの支配下に置かれ道路上に放置されたままになつているということを聞き、これを同盟員らの手から奪還しようとして元津にあらわれた。

(2) 原告ら一二名の組織的対応

原告佐藤、同尾下、亡西岡二郎は、原告橋本が元津に残つたままで自宅に戻つてこないことを知るや、元津に赴き、更に彼らも戻らないことが明らかとなるや、日本共産党但馬地区副委員長安治川を通じて、原告西野、同梅田が呼び集められた。原告西野は、原告上垣に連絡した。

彼ら呼び集められた者に共通しているのは、原告橋本の作成した本件ビラの内容も知らないまま直ぢに行動を起していて、本件ビラの配布をくいとめようとする被差別部落の人々の気持に対しては一顧だにしようとしなかつたということである。何らかの社会運動の経験を有する者であれば当然に有しているはずの主体的判断の片鱗さえ有していなかつた。

亡西岡二郎との電話での協議のうえ、責任者と目される安治川の指示で、原告太垣ら六名は元津に行き、安治川らは、原告橋本宅で待機していた。

(3) 糾弾の経過

(ア) 昭和四九年九月九日午前七時半ころ、原告橋本は、迎えにきた原告佐藤らと一緒に立ち去ろうとしていた。前夜来、本件ビラをまかせないための取り組みを行なつていた同盟員らにすれば、原告橋本が本件ビラに関与していることがはつきりしたその現場で、本件ビラ配布の差別性を説得しておかなくては、今後とも差別キャンペーンが続くと思われたし、ましてや、右原告らが差別の痛みなど知らぬ存ぜぬといいたげに黙つて車を待機させている姿を見て、いよいよ、本件ビラ配布の差別性を訴えようと思うにいたつたことは、けだし当然であつた。かくして、一〇数名の同盟員が右原告らの前に立ち塞がり、説得を始めたのである。

(イ) その後、同盟員らの数は、徐々に増していつた。当初は国道三一二号線上で、次いでテント内で、説得は続けられた。同盟員ら側としては、朝来町立福祉会館での説得活動を希望し、警察を通じて申し入れも行なつたが、右原告らに拒否された。その結果、糾弾は夕方五時ころまで続けられることとなつたが、右原告らのために昼食時の休憩をとつたし、午後からは椅子を提供した。

(ウ) 同盟員らは、各自が、差別に対する怒り、差別による苦しみを訴え、本件ビラを始めとする差別ビラの作成配布の中止を求めた。しかしながら、右原告らの多くは、差別ビラの内容すら知らないという有様で、同盟員らの問い掛けに対して答えようとせず、下を向き沈黙するばかりであつた。同盟員らは、右原告らの態度を見て、悲しくもありまた激しい憤りも覚えた結果、時には、差別者、人権を返せ、と強く迫ることもあつたが、暴力を振うようなことはなかつた。

(六) 被告らの行為の正当性

被告らにとつて原告橋本が本件ビラの作成に関与していると容易に推測することができたものの、当時、確たる証拠がなかつたので、本件ビラ配布という差別行為と密着した現場で同原告を糾弾することがどうしても必要であり、それが差別ビラ配布行為を中止させる最も現実的、効果的な方法でもあつた。また、その余の原告らに対しても、原告橋本を糾弾する理由、同原告の行つた行為の差別性を説明したうえ、党の判断にとらわれることなくその主体的判断に基づく変革を求めたものである。

被告らの糾弾行為は、すぐ側にいた警察官が直ちに介入する必要がないと判断しうるような状況下で進められ、休憩や食事の差入れ等も行われ、和田山署長も、糾弾の場に赴いて糾弾を受けている原告橋本らと面談すらしているのである。

したがつて、本件における被告らの右糾弾行為は、これら諸般の事情を考慮すれば、社会的相当性を有するものであり、なんらの違法性も帯びていず、正当な行為であるというべきである。

四  抗弁に対する原告らの認否及び反論

1  認否

被告らの原告ら一二名に対する行為が正当性を有する旨の被告らの主張は争う。

2  反論

(一) 糾弾行為の本質について今日、解同は、「差別糾弾」の名のもとに、差別教育をしているとか、差別行政であるとか、一方的に決めつけ、確認会、糾弾会への出席を強要し、更に、その目的は差別者に対する抗議とともに教育であり、糾弾を通じて差別を見抜き、差別を許さない体制をつくり上げていくなどと称しているけれども、その実質は集団による暴力である。

確認会、糾弾会に名を藉りた解同の糾弾行為の第一の特徴は、それが、多くの場合、幹部によつて指導され組織的に行われていることである。解同の幹部自身が暴力の先頭に立つことも少なくないが、仮にそうでなくても、解同の幹部が教唆、煽動し、その容認、庇護のもとに集団暴力が繰り広げられているというのが実体である。幹部の意図に反して、激情に駆られた一部の同盟員が偶発的に暴力に走つたというようなものではないのである。

解同の暴力的な確認会や糾弾会の第二の特徴は、それが、一方では自治体当局や学校当局に向けられ、補助金や各種の援助金を獲得したり、「解放教育」と称する独自の考えによつて公教育を支配することをめざして、当局を威嚇、恫喝する手段に用いられ、他方では、このような解同のやり方を批判する者に対し、批判の言動を暴力によつて封殺する手段として行われていることである。

ところで、解同は「糾弾は差別に対する抗議と教育である。」との主張をしている。不当に権利を侵害された人が、それに抗議し是正と現状回復を求めることは当然といつてよいが、民主的国家、法治国である以上、それはあくまで言論によるべきものである。集団の力を背景に犯罪になるような脅迫、恫喝を加えることが許されるわけはない。「教育」と言つても、公教育ではないのであるから法律的に見ても相手方の同意が必要である。また、教育と言うからには、教育する者と教育される者との間に、一定の基本的な信頼関係が必要であるのに、無理やり集会に連れ出したりすることは、それ自体反教育そのものである。いわんや一方的な言分で市民を監禁したり、拉致して恫喝し、暴力をふるうやり方が正当化される理由は全くない。

解同はしばしば「差別を取締まる法律がなく、差別に対する法的救済に限界があるので、糾弾は必要なものであり正当な権利である」とも言う。しかし、法的救済に限界があるのは何も部落差別だけでなく、いろいろの人権侵害、差別にもあるのである。この場合、法的手続きによることなくその権利侵害に対して抗議し、是正を求めることができるのは当然であるが、これは、憲法が保障する言論表現の自由の行使としてのみ正当性を持つのである。部落差別に対する抗議なども、右のようなものとしてのみ正当なのであり、それ以上のものではない。この抗議などの権利行使は、相手方に対し、強制力を使うことはできないのである。もし、市民が差別的言動や態度をとつたとしても、啓蒙と文字通りの教育的説得を行うのが限度であり、そのことが差別の解消に役立つのである。脅迫と暴力によつてたとえ差別した者を屈伏させたところで、差別解消に役立つどころか、一層差別を拡大させるであろうことは見易い道理である。

(二) 差別行為の認定

解同は、差別性の認定基準を部落ないし部落民にとつて利益であるか否かという点に求めている。この命題は、部落住民にとつて不利益な問題であつても部落差別とかかわりのない事柄はいくらでも存在しているにもかかわらず、事実関係を逆転してとらえたうえ、部落住民にとつて不利益な問題をすべて身分差別だけでとらえる非現実的、非科学的な見解であることは誰の目にも明らかである。更に、右認定基準は解同がその主観的判断で「差別」と認定さえすれば糾弾が許されるという暴論と暴挙を合理化する論拠にもなりうるのである。

また、差別意識は、自己が意識するとしないとにかかわらず、客観的普遍的に空気を吸うように一般大衆の中に入りこんでいるものであるとする考えが解同の糾弾行為の支えとなつているが、このような考え方によれば、部落民以外はすべてこの世に生を受けて以来はじめから差別する側にあることとなり、自然に誰から教えられるということもなく差別者として成長していき、その存在することの故のみをもつて糾弾されなければならないということになり、まことに不合理であり、糾弾行為を正当化する口実にしかすぎない。

(三) 本件ビラ配布の正当性

(1) 言論、出版、表現の自由

「言論、出版その他一切の表現の自由」は、憲法で保障された重要な基本的人権の一つである。この基本的人権は私人対国家の関係のみならず、対私人間においても保障されるべきは、当然のことである。他人の発行した出版物に対する批判、反論は、同しく言論、出版物等によつてなされるべきが民主主義社会の大原則であり、仮にそれが事実に反する部分、あるいは自己に著しく不利な内容又は名誉棄損行為を含んでいるとしても、私的制裁を加えたり、私的実力行使によつてその頒布を差止めたり、あるいは無断で当該出版物を回収したりすることは、もとより許されない。

被告らの本件不法行為及びそれに至る一連の行動は、憲法及び民主主義社会の法秩序を根本的に覆そうとする暴挙であつて、出版、表現の自由に対する明白な侵害行為である。しかも、被告らの本件ビラに関する主張は、「差別を拡大助長するもの」とか「部落民に対する偏見を助長する内容」などという極めて抽象的かつ主観的になりやすい基準からなる非難であつて、その行きつくところは、「部落差別の解消」を口実とした、私的団体である解同等による「検閲」を認めよというに等しいのであつて、到底現憲法下において容認されることではない。

(2) 本件ビラの内容の真実性

本件ヒラを含む有志連ビラは日高有志連の正規の機関決定を経て発行された、右有志連の報道、宣伝文書である。これらのビラの内容は、いずれも単なる間接情報にとどまらず、日高有志連役員自らが直接関係者にあたつて調査し、或いは報告、相談を受けて事実を確認したうえ記事にしているものであり、単に一部の者の情報を鵜呑みにしたものでない。特に本件ビラの本文に記載されている事項は、兵教組朝来支部の調査に基づくものであつて基本的に信憑性が認められるのみならず、原告植田ら日高有志連幹部自らも事実確認のうえ、原告橋本の原稿に加削しているものである。また、本件ビラにおいて名指しで批判されている朝来中学校の管理職の一人である太幸教頭(当時)自らも、本件ビラ記載の事実摘示の大部分が真実であることを認めている。

(3) 本件ビラ配布の事情と被告らの意図

原告橋本らの本件ビラ配布(各戸手配り)の動機は、直接的には、被告らや町当局者によつて本件ビラの新聞折り込み配布を妨害されたり、各新聞店主に対して、脅迫が行われたりしたことにより、本件ビラを住民に配布する手段を失つた原告橋本を含む日高有志連の一人一人が、やむを得ず、南但馬の多くの住民に対してより一層真実を伝える必要に迫られたことによる、いわば防禦的なものであつた。これに対して、被告らは、本件ビラに対して「差別文書」なる烙印を押してこれを口実として、その実は、彼らの行う確認糾弾会や解放教育路線の実態とその決定的誤りがあからさまに広く住民に知られることをおそれ、意図的に、これを何としてでも如何なる手段を使つても封じこめようとしたものである。

第三  証拠〈省略〉

理由

一  侵害行為について

1  事件発生に至るまでの経緯

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、〈反証排斥略〉、ほかに右認定に反する証拠はない。

(一)  本件ビラ配布について

(1) 兵教組朝来支部長であつた原告橋本は、かねてから解同県連沢支部所属の青年層が行つている部落解放運動を強く批判し、これときびしく対立していたところ(後記二1(一)(2)参照)、昭和四九年九月七日、朝来中学校の校内確認会を批判した、日高有志連発行名義の本件ビラ(原告橋本と日高有志連との関係及び本件ビラ作成の経緯、内容については後記二1(一)(2)、二1(三)参照)を兵庫県朝来郡内の新聞販売店に持ち込み、翌八日の日曜日の朝刊に折り込んで各戸に配布することを依頼した。ところが、これを察知した朝来町当局及び解同県連沢支部は、すぐさま、各新聞販売店に対し、町職員や同盟員を派遣して本件ビラの配布の取りやめや本件ビラの提出を強く要求し、更には、配布を取りやめることは商業道徳に反するとして右要求に応じることをためらつている店主に対しては、解同県連の確認会への出席方を暗に示唆するなどした。その結果、右各新聞販売店はいずれもやむなく右要求に応じたため、原告橋本が意図した新聞折込みによる本件ビラの配布は結局実現するに至らなかつた。

(2) 翌八日、原告橋本は、原告植田らと相談のうえ、せめて朝来町内だけでも、自分達で手分けして各戸に配布しようと考えた。そして、急遽、右の如く解同県連と朝来町当局の介入によつて本件ビラの新聞折込みが妨害されたいきさつを記載してこれに抗議する趣旨のビラを作成し、このビラと本件ビラを一組みにしたものを、兵教組朝来支部組合員の有志及び日高有志連関係者などを動員して、同日夕方ころから、朝来町内のほぼ全域にわたつて(原告橋本のもとには、沢地区の伊由市場にある朝来町立福祉会館において確認会が開かれるという情報が入つていたので、混乱を回避するため、同地区は除外された。)、配布し始めた。

(二)  原告橋本らの本件ビラ奪還行動とその阻止

原告橋本は、同月八日午後八時三〇分ころ、家人から、同原告の留守中に、兵教組朝来支部組合員である能見教諭が、車から離れてビラを配つて歩いている間に解放車によつて自車の前後を塞がれ移動を阻まれてしまつた、車には本件ビラを積んでおり、そのうえ車を明日の通勤に使わなければならないので取り返して欲しい旨の連絡をしてきた旨を聞くや、早速、和田山町町会議員の原告佐藤に電話を入れて応援を要請したうえで、既に原告橋本宅に来ていた八鹿高校教諭片山、日高有志連会長の原告植田や同監査の原告西本らとともに乗用車二台に分乗して元津に向い、同日午後九時ころ、見取図点付近において、南方を向いてとまつている能見の乗用車を発見した。そこで、原告橋本は、右乗用車が放置されているものと思い、ひとり右乗用車に近付き、これを運転して帰るべく同車に乗り込んで発進しようとしたところ、それまで同所近くの路地に隠れていた同盟員らの車が、突如、原告橋本の乗り込んだ右乗用車の前方及び後方に出て来て、その前進後退を阻むため、交差するようにして停止した。この異変を察知した片山らは、直ちに乗つて来ていた車を転回させてその場から北に向かつて走り去つた。やがて、原告橋本の乗つた車のまわりには約一〇名の同盟員らが集まつてきて同車を包囲し、運転席にいる同原告に対して本件ビラを差し出すよう強く要求したが、同原告は、これに応じなかつた。一方、原告植田を同乗させて、原告橋本らの車の後を追つて元津に到着した原告西本はその運転してきた車を、原告橋本が右能見の車に乗り換えたころ、見取図、両点の中間あたりに一旦停車させたが、その直後、待ち伏せしていた同盟員らに取り囲まれてしまつた。原告西本はその場から脱出するべく徐行運転で右車を後退させて見取図点付近まで至つたが、同盟員らに「後ろに人間がいる。バツクしたら死ぬぞ。」といわれたので、驚愕して停車させたとたん、たちまち右車の前後を同盟員らの車によつて阻まれ、同日午後一〇時ころ、同所で進行できなくなつた。

また、原告橋本が同盟員らに包囲されてから十数分後に被告丸尾が見取図点のあたりに到着し、原告橋本に対する監視態勢を指示した。

(三)  原告佐藤らによる、原告橋本の救出行動

原告佐藤は、同月八日午後八時二〇分ころ、原告橋本からの電話による援助依頼を受けるや、直ちにユニゾン労働組合梁瀬支部長の原告尾下及び山東町町会議員の亡西岡二郎に連絡し、いつたん原告橋本宅に寄つた後、原告尾下とともに車で元津に向い、同日午後九時三〇分ころ、見取図点に達した。原告佐藤は、同所において、同盟員らに取り囲まれていた原告橋本から運転免許証を失念したので取つて来て欲しいとの依頼を受けたので、同盟員らの妨害を受けながらもかろうじてその場を離れて原告橋本宅に行き、同原告の運転免許証を持つて再び元津に赴き、同日午後一一時ころ同原告に運転免許証を渡した。その後、原告佐藤は再度原告橋本宅に戻り、同所にいた和田山警察署長に対して職権発動を強く求めたりしていた。しかし、次第に事態が打開されないことに焦慮した原告佐藤は、翌九日午前二時ころ、原告橋本の様子をみるため、原告尾下及び亡西岡二郎を伴つて、元津に向けて自動車で出発し、見取図表示の森山功一宅横の三差路を左折して見取図点に通ずる道路(以下「旧県道」という。)を北進しながら、同点付近に達した。

他方、見取図点では、原告橋本が進行を遮られてから時間が経過するうちに、同原告を取り囲む同盟員の数は次第に増え、約四〇ないし五〇名の同盟員が原告橋本の乗つた車のまわりにたむろし、付近の民家の軒下や周辺の駐車車両に入つて仮眠、休息をとりながら、原告橋本を監視し続けた。

(四)  原告橋本らの脱出行動とそれに対する妨害

原告佐藤らは、見取図点付近で警戒にあたつていた和田山警察署長から、同盟員らは本件ビラを渡さない限り原告橋本の帰宅を認めるわけにはいかないといつているということを聞き、やむなく、本件ビラを能見の車に積んだままにして、原告橋本のみを原告佐藤らの車に乗り換えさせることにし、同月九日午前三時ないし四時ころ、原告橋本を説得して見取図点から見取図点の原告佐藤らの乗つている車に乗り換えさせて和田山方面に向けて発進しようとした。しかし、原告橋本らの行動を察知した二、三名の同盟員が、たちまち、原告橋本らが乗つた右車の直前に立ち塞がつてその進行を妨害し、更に、そのうち一〇名余りの同盟員が同所に集まつて来て、解放車を原告橋本らの乗つた右車の前面にとめるなどしてその発進を阻んだ。

(五)  原告奥村ら六名の行動

一方、出石町町会議員の原告奥村、豊岡市市会議員の原告太垣、民主青年同盟但馬地区委員長の原告西野、兵庫県高等学校教職員組合但馬書記局員の原告上垣、地方公務員の原告梅田及び彫刻家の原告松田ら六名は、日本共産党但馬地区委員会などから原告橋本らが元津で同盟員らに取り囲まれている旨の連絡を受けるや、いつたん原告橋本宅に立ち寄つた後、原告橋本らを救出するため、三台の乗用車に分乗して元津に向い、同月九日午前六時三〇分ころ、見取図点付近に到着した。

(六)  本件第一現場に至るまでの原告橋本らの行動経路など

見取図点で同盟員らに包囲されていた原告橋本ら四名は、同月九日午前六時三〇分ころ、車を同所に置いて徒歩で帰宅することを決意し、車外に出て同所から見取図表示の朱線のとおり南進を始めた。一方、原告太垣及び同奥村は見取図点から旧県道を徒歩で南下して行くうちに、見取図表示の森山功一宅付近を、同盟員らに取り囲まれながら歩いている原告橋本ら四名を認めるや、直ちにその後を追つた。原告橋本ら四名は、同盟員らに揶揄、恫喝されながら、見取図表示の朱線のとおり、いつたん国道三一二号線に出て右国道を北上するうち、同図表示の歩道橋付近において、後ろからついてきた原告太垣、同奥村の両名と合流した後、見取図点に取り残された原告植田、同西本の安否を気遣い、再び、旧県道に入つていつたが、同盟員らに妨害されて右原告両名に近付くことができなかつた。そこで、原告橋本ら六名は、原告植田らの救出を断念し、その横を通過して、更に北上し、同日午前七時ころ見取図点付近に達するや、同所でいつでも発進できる態勢で三台の乗用車に分乗して原告橋本らを待ち受けていた原告梅田、同西野、同上垣及び同松田と合流し、全員、右各車に乗り込んで発進しようとした。ところが、原告橋本らを追尾してきた約二〇ないし三〇名の同盟員らが同所で右各車の前に立ちはだかつたり、解放車を前面に横づけするなどしてその発進を阻止したため、原告橋本ら一〇名は、車による脱出を断念し、再度同所から徒歩による帰宅を決意して、国道三一二号線を北に向うべく、一団となつて歩き始めたが、すぐさま、多数の同盟員らに取り囲まれてしまつた。その後、被告丸尾は解放車のマイクを使つて、同盟員らに対して「植田の車の見張りだけ残つて全員集れ。」と号令をかけ、更に、「この場で糾弾会を組織する。」と宣言した。

2  加害行為

(一)  本件第一現場における概要

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

原告橋本ら一〇名は、前記のとおり、昭和四九年九月九日午前七時ころ、見取図点付近で車から降り一団となつて北方へ歩き始めたところ、被告丸尾の指揮により約三〇ないし四〇名の同盟員らがスクラムを組んで円陣をつくつて原告橋本ら一〇名を取り囲み、同原告らに対して口々に「日共差別者集団」「差別ビラを撒くな」などと罵声を浴びせるなどした。

同盟員らは、同日午前八時三〇分ころ、同所において、原告橋本らから傘を取り上げるや、その上に農作業用のビニールシートを被せ、更に、同日午前九時ころ、右ビニールシートを取り除いた後、すばやくテントを設置し、東、西、北の三方向を塞いだテント内に同原告ら一〇名を押し込めた。原告橋本ら一〇名は右テント内において互いに分断され、それぞれ、数名の同盟員に取り囲まれて肉声あるいはハンドマイクで耳元近く大声でののしられた。

被告丸尾は、同日正午近く、和田山警察署長から道路上よりテントを撤去するように警告された。そこで、同被告は同盟員数名と相談した結果、原告橋本らを前記福祉会館に連れて行き同所において引き続き糾断することを決め、その旨の伝言を同署長に託した。同署長がテント内に閉じ込められた原告橋本らに右伝言を伝えている間、同盟員らはテントから一時退去して周辺でなりゆきを見守つていたが、原告橋本らが同署長からもたらされた被告丸尾らの右申入を拒否したことが判明するや、被告丸尾は、直ちに同盟員らに対し、原告橋本ら一〇名に対する糾弾再開を指示し、同盟員らもこれに応じ、前同様再びテント内に入つて原告橋本ら一〇名に対して怒号、罵声を繰り返した。

同日昼過ぎころ、日本共産党但馬地区委員会の委員から弁当が届けられたので、被告丸尾はその差入を認めることとし、前記和田山警察署長がテント内に弁当を持つて入つたので、二〇分間の休憩を宣し、この間、同盟員らはテントの外へ出た。

被告丸尾は、同日午後一時過ぎころ、同盟員数名と相談のうえ、テントを国道三一二号線の道路東側の空地に移動することを決め、同被告からその趣旨の指示を受けた約四〇ないし五〇名の同盟員らは、テント内に入つて原告橋本らを取り囲んでひとかたまりにしたうえ押しやるようにしてテントごと見取図点まで移動させた。同盟員らは、その後も、被告丸尾の糾弾続行の指示に従い、再び、同所で、原告橋本らを一人ずつ分断し、一人に対して数名の同盟員がこれを取り囲み、適宜交替しながら前同様怒号や罵声を繰り返した。午後二時ころになると、テント内の同盟員が大部分入れ替り、新たに中学生、高校生(朝来中学校の解放研の生徒を含み、女子生徒が多かつた。)が大挙してテント内に入り、原告橋本ら一〇名に対して、かん高い声でしきりに罵声を浴びせた。そのころ、テント外には支援のためかけつけた同盟員が溢れ、自動車の台数は約三〇台、同盟員の人数は約二〇〇名にものぼつた。被告丸尾は、同盟員らに対して自動車を整列させて駐車することを命じ、路外の空地に、自動車の前部を国道三一二号線の方に向け、テントが自動車の後方に位置するようにしておおむね横一列に並べさせた。

同盟員らは、同日午後三時三〇分ころ、被告丸尾から指示されて、機動隊の行動開始に備え、右のとおり配置した自動車の前にスクラムを組んでピケを張り、更にテントの周囲にもスクラムを組んで人垣をつくり機動隊の進入を阻む構えをみせた。機動隊は、午後五時ころ、ピケを張つていた同盟員らの排除態勢に入り、一五分後には、原告橋本ら一〇名を救出した。

(二)  本件第二現場における概要

〈証拠〉によれば、同盟員らは、同月八日午後一〇時ころから翌九日午後五時過ぎころまでの間、本件第二現場において、原告植田、同西本の乗つた乗用車の発進を阻止するためその前後に車を各一台駐車したうえ、数名でまわりを取り囲み同原告らを乗用車内に閉じ込めて、罵声を浴びせるなどしたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

3  被告らの前夜(昭和四九年九月八日夜)からの行動及び関与形態

(一)  被告丸尾

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、右認定に反する被告丸尾の供述は右認定に沿う右掲記の各証拠に照らし採用できないし、ほかに右認定に反する証拠はない。

被告丸尾は、同月八日午後九時ころ、同盟員三名位を伴つて前記福祉会館を出発し、やがて元津に到着すると、直ちに、見取図点付近において、車の中にいた原告橋本に対して本件ビラの引渡を求めた。しかし、原告橋本らが右要求に応じないので、被告丸尾は、そこにいた同盟員らに対して車の前後に立ち塞がつてその進行を阻止するようにとの指示を与えるとともに、増援を求めるべく同盟員の動員を指令したり、雨具の用意を指示したりした。被告丸尾は、翌九日午前六時過ぎころ、原告橋本らが見取図点付近から移動したことを同盟員から知らさせるや、急遽解放車に乗り込み、国道三一二号線を徒歩で北上しようとしている同原告らの直後を解放車に乗つて追尾し、その間、マイクを使つてしきりに同原告らに対して罵声を浴びせ、見取図点付近に到るや、原告橋本らに対する憤激、憎悪の念がいよいよ募り、同日午前七時ころ、同盟員らに対して、前示のとおり、解放車のマイクを使つて「植田の車の見張りだけ残つて全員集まれ。」と号令をかけ、更に「この場で糾弾会を組織する。」と宣言し、スクラムを組んで円陣をつくり同原告らを包囲することを命じた。また、被告丸尾はその場に居合わせた朝来町職員に対してテントの手配を依頼した。被告丸尾は、一度本件第二現場にも臨み車中にいる原告植田、同西本の様子を窺つたが、それ以外は殆んど本件第一現場付近にいて、同盟員らに対して糾弾の中止、再開を指示し、あるいは、テントの移動を指示したり、テント内に入つて糾弾の状況を確かめたり、パイプ椅子に座つている原告橋本の足を踏むなどした。更に、同被告は、機動隊の出動を予期して、同盟員中の主たる者を集めて対応策を協議し、同日午後三時三〇分ころ、解放車のマイクを使つて「女の人が前列になつてピケを張つて下さい。テントの中では糾弾を続けて下さい。テントのまわりはスクラムを組んで下さい。」と指示した。

(二)  被告安井義隆

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、〈反証排斥略〉、ほかに右認定に反する証拠はない。

被告安井義隆は、同月八日午後七度三〇分ころ、当夜予定されていた確認会に出席するため、前記福祉会館に赴いたところ、共産党員が元津で有志連ビラを各戸配布しているということを聞き、直ちに他二名の同盟員とともに元津に向つた。同原告は、見取図点付近において、本件ビラが車内に山積みされたまま無人で放置されている乗用車を発見したので、物陰から様子を窺つているうち、原告橋本が右乗用車に乗り込んだのを認めるや、同車にかけより、同原告に対して右ビラの引渡を求めたが、同原告が応じないので同原告を同車内に閉じ込めたまま、翌九日午前三時ころから午前六時三〇分ころまでの間同所近くにとめてあつた車の中で仮眠したりした後、同日午前七時ころになつて、既に見取図点に移動していた原告橋本らのところへ行き、同所で原告橋本らを取り囲む同盟員らのスクラムのなかに加わつて、原告西野の耳元近く肉声で怒号したり、原告松田を厳しく追及するなどした。同日午後一時三〇分ころから午後三時ころまでの間、私用のため、本件第一現場を離れたが、再び、同現場に戻つてきてからは、解放車の屋根の上からマイクを使つて「機動隊帰れ。」などと叫んだり、解同の荊冠旗を振るなどしてピケを張つている同盟員らを煽動した。

(三)  被告安井千明

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、右認定に反する被告安井千明の供述は右認定に沿う右掲記の各証拠に照らし採用し難く、ほかに右認定に反する証拠はない。

被告安井千明は、同月八日午後八時ころ、見取図点付近に至り、原告橋本を発見するや、他の同盟員とともに同原告を取り囲み、繰り返し同原告に対して本件ビラの引渡を求め、「そのビラを渡さん限りここからは返すわけにいかん。」、「わし、まだ運動があるんでね、手も何もよう触れんけど、運動してなかつたらほんまにこばこばにどつきもうてるぞ。」などといつて同原告を脅しつけた。更に、被告安井千明は、暫し仮眠をとつた後、翌九日午前七時ころから午後五時ころまでの間、本件第一現場において、頻繁にテント内に出入りし、亡西岡二郎に対して「お前はしぶとい奴や、にくい顔をしている。割木で殴り殺したろか。」と脅迫したり、原告梅田に対していきなり殴打するかのようなふりをして顔面近くで手拳の動きを止めるといつた仕草をしたり、原告西野に対してハンドマイクを耳元に近付けて怒鳴り、胸や肩で押したり、原告奥村に対してハンドマイクで耳元近く大声を出したりした。テントの外では解放車の屋根の上からマイクを使つて「機動隊帰れ」などと叫びシュプレヒコールを煽つた。

(四)  被告尾崎

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

被告尾崎は、同月八日夜、前記福祉会館において行われた確認会に出席し、その席上、ほかの同盟員から、有志連ビラを配布していた共産党員を元津で捕えたとの連絡を受けた。同被告は、既に元津に向つていた被告丸尾らからなんらかの指示があるまで待機しようと考えていたが、待ち切れず、翌九日午前二時ないし三時ころ、元津へ向けて出発し、見取図点付近で、被告丸尾を含む同盟員が原告橋本らの乗つた乗用車二台を取り囲み、「外へ出て話し合いに応じろ。」などと言つているのを目撃した。被告尾崎は、約一時間位同所にいたが、着替えのため一旦福祉会館に戻つた後、再び、同日午前七時ころ元津に向い、見取図点において、原告橋本らを取り囲んでいる同盟員らのスクラムに加わり、原告橋本に対して「こそこそとビラ配りをして恥しいとは思わんのか。」などと怒鳴りつけたり、同所にいた他の原告に対して「日共は有志連と関係があるやないか。」といつて追及を始めた。テントが設置された後は、午前中三、四回位テントを出たり入つたりし、テントが見取図点に移動してからも同日午後五時ころまで同じ位の回数テント内に出入りし、他の同盟員とともに原告西野、同奥村、亡西岡二郎らを取り囲み、同人らの耳元にハンドマイクを近付けて怒号するなどした。被告尾崎は、同日午後五時ころ、テントのまわりで他の同盟員多数とともにスクラムを組み、機動隊員らによる救出活動を妨害しようとしたが、排除された。

4  原告ら一二名の被害状況

(一)  原告梅田

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

原告梅田は、昭和四九年九月九日午前七時ころから午前八時三〇分ころまでの間、見取図点において、同盟員らに肩で押されたり、耳元近くで「お前の家捜して嫁はんや子供を連れて来て糾弾してやる。」とか「解同やめたら殺したる。」などと大声でわめかれたりしたほか、被告安井千明からは前記のとおり今にも顔面を殴打するかの如き素振りを示されて威嚇された。その後、同原告は、見取図点に設置されたテント内において、同盟員らから「目をつむるな」、「横向くな」、「真つすぐ向け」などと罵声を浴びせられ、また、同原告が教師であると誤解した同盟員から「差別教育をしているだろう」とののしられた。同日午後一時ころ以降、見取図点に移動設置されたテント内においても、数名の中学生や高校生が同原告を取り囲みその周囲を走りまわりながらかん高い声で叫んでみたり、「お前は児童憲章を知つておるのか」、「差別教育ばかりしておるんや」とかいつて罵倒した。その間、同原告は、小用を足そうとして、一度テントの外に出たが、終始同盟員の監視下におかれていたので、脱出することは不可能であり、やむなくテント内に戻つた。同原告は、同日午後五時過ぎ機動隊員によつて救出される際、周囲にいた同盟員に足や臀部を蹴られ、更に顔面を殴打されて鼻から出血した。同盟員らによる右行為の結果、同原告は、両感音系難聴及び耳鳴の症状が発現し、右症状は約一週間継続した。

(二)  原告太垣

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

原告太垣は、同月九日午前七時ころから午後五時過ぎころまでの間、本件第一現場において、同盟員らから、突き出した手拳を顔面の直前で止めるという仕草をもつて今にも殴打されるかの如き威嚇を数回受け、あるいは、ハンドマイクを耳元に突きつけられて大声で「きよう帰れると思つたら大間違いだぞ、帰さへん」、「赤犬」、「差別者」などと罵声を浴びせられた。同原告は、小用のためテントの外に出たときも、同盟員が監視のためついてきたので脱出することができなかつた。同盟員らによる右行為の結果、同原告は、治療一〇日間を要する両感音系難聴、耳鳴の傷害を負つた。

(三)  原告西野

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

原告西野は、同月九日午前中、見取図点において、同盟員らから繰り返し「こら差別者」、「お前ら返さへんぞ」、「殺したろか」、「大根みたいに刻んだろう」等と面罵されたり、入れ替り立ち替りハンドマイクを耳元に突きつけられて怒声を浴びせかけられたほか、背後から体当りされたり、胸や肩で体を押されたりした。同日午後になつてからも、見取図点において、同盟員らから右同様の暴行脅迫を受け、更に、若い女性の同盟員からかん高い声で間断なくわめかれたり、鼻筋のあたりに手拳を突きつけられ、「名前をいうてみい」、「殺したろうか」、「目を覚ませ」などとののしられた。また、同原告は、前記のとおり、被告安井千明からハンドマイクを耳元近く持つてこられ大声でわめかれたり、胸や肩で体を押されたりし、被告尾崎からもハンドマイクを突きつけられて大声で怒号され、被告安井義隆からは耳元近く大声で怒鳴られた。同盟員らによる右行為の結果、同原告は、一週間ないし一〇日間耳鳴がやまなかつた。

(四)  原告奥村

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

原告奥村は、同日九日午前中、見取図点のテント内に押し込められて、同盟員らから「差別者」、「赤犬」、「お前ら帰ろうと思つたら大間違いだ」などと罵声を浴びせられ、同日午後になつても、見取図点に移動された右テント内において、中学生や高校生からかん高い声でわめかれたり、「裏切者がここにおる」とののしられたり、被告安井千明や同尾崎からは前記のとおりハンドマイクを耳元に近付けられて大声を浴びせかけられた。その間、同原告は、小用のため、二度右テントの外へ出たときも、二、三名の同盟員らにそばで監視されていたため脱出できなかつた。同盟員らによる右行為の結果、同原告は、四日間耳鳴、難聴が続いた。

(五)  原告佐藤

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

原告佐藤は、同月九日午前中、見取図点において、同盟員らに、傘をつたつて落ちる雨滴を襟元に流し込まれたり、「町会議員をやめさしてやろうか」、「女房も子供もここへ引つ張つて来て一緒にやつてやろうか」、「商売つぶしてやろうか」、「わしら解放同盟はお前ら殺さへんのや。殺したら解放同盟に傷がつく。四、五年たつたら部落は完全解放されるからその時点でわしは同盟やめてやつたる。」などと大声で脅しつけられたり、八ミリカメラで撮影されたり、よろめくふりをして故意に足を踏みつけられたり、ハンドマイクを顔に近付けられて音量を大きくさせられたりした。同日午後になつても、見取図点に移動したテント内において、女子中学生にまわりを囲まれ、かん高い声で「おい佐藤目開け、コケコッコー、鶏鳴いている」と愚弄されたりした。同盟員らによる右行為の結果、同原告は、治療一〇日間を要する両感音系難聴、耳鳴、頭痛などの傷害を受けた。

(六)  原告尾下

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

原告尾下は、同月九日午前中他の原告らと同様に同盟員らから暴行、脅迫を受けていたが、午後になつても、見取図点の前記テントにおいて、同盟員らに「娘をやつてもたろか」と脅されたり、ハンドマイクを耳元に突きつけられ怒号、罵声を浴びせられたほか、女子高校生からもかん高い声でわめかれたりした。同盟員らによる右行為の結果、同原告は、三週間の治療を要する両感音系難聴、耳鳴の傷害を負つた。

(七)  原告橋本

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

原告橋本は、同月九日午前七時ころから午後五時過ぎころまでの間、本件第一現場のテント内において、同盟員らに顔面近くハンドマイクを左右交互にあるいは同時にあてられて悪口雑言を浴びせられ、立つていることが困難になつてくると、同盟員に脇から抱えられたりあるいは脛を蹴り上げられたりして起立を強要され、更に前方から体をぶつけられて転倒させられたりした。同原告は、立つていられなくなつて、遂に、地面に敷かれた段ボール紙のうえに横臥したが、その姿勢でいる間も、ハンドマイクを耳元に押しつけられて罵声を浴びせ続けられた結果一時意識を失い、その場に来た保健婦の診察を受けたりした。その後、パイプ椅子に座らされた同原告は、ハンドマイクで罵倒を続けられて意識朦朧としていたところ、被告丸尾から前記のとおり足を踏みつけられて「こいつはくたばつておらん、眠いだけや」と罵倒された。同原告は、テント外で小用を足そうとした際も、背後から監視されて脱出できないばかりか、屈辱的な気分を余儀なくされ、また、中学生や高校生からも代わる代わる取り囲まれ大声で「こら阿呆」、「ものも言えんのか、それでも先公か」「何した言え」とわめかれた。同盟員らによる右行為の結果、同原告は、体が極度に衰弱し、二、三日間体に変調をきたし、下痢と耳鳴の症状が数日間続いた。

(八)  亡西岡二郎

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

亡西岡二郎は、同月九日午前中、見取図点において、同盟員らにハンドマイクを耳元に当てられ「こら差別者」、「なぜ黙つとるんや、おしかつんぼか」などと怒号されたり、足で蹴られたり小突かれたりした。同日午後になつても、亡西岡二郎は、見取図点において、中学生や高校生から入れ代り立ち代り囲まれ罵声を浴びせられ、また、小用のためテントから出た際も、同盟員が監視していたため脱出できなかつた。その間、亡西岡二郎は、前記のとおり、被告安井千明からは「お前はしぶとい奴や、にくい顔をしとる、割木で殴り殺したろか」と脅迫され、被告尾崎からもハンドマイクを耳元に当てられて怒号、罵声を浴びせられた。同盟員らによる右行為の結果、亡西岡二郎は、両感音系難聴、頭痛の傷害を負い、右症状は約二週間継続した。

(九)  原告上垣

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

原告上垣は、同月九日午前、見取図点において、同盟員らに大声で「赤犬」、「差別者」、「殺したろか」、「今日は帰さんぞ」などと脅迫され、肩でこずかれたり、被告安井千明からは殴る格好をされたり、ハンドマイクを顔に近付けられ高い金属音を浴びせられたりした。同日午後になつても、同原告は、見取図点において、中学校や高校の女子生徒からかん高い声で耳元近くで怒鳴られた。同原告は、一度小用のためテントから出た際も、二名の同盟員が監視していたため脱出出来なかつた。同盟員らによる右行為の結果、同原告は、耳鳴が二日間位続いた。

(一〇)  原告松田

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

原告松田は、同月九日午前中、見取図点において、同盟員らに「今日は畳の上で寝れると思うな」、「殺したろか」、「大根みたいに刻んだろうか」、「子供が生まれたら子供と一緒にやつたる」、「電話かけて寝らしたらへん」、「家について行つてやつたる」などと脅迫されたうえ、耳元近くにハンドマイクを寄せられて大声を出されたり、傘のしずくを意識的に頭や首筋にかけられたり、顔を撮影するなどのいやがらせを受けた。同日午後には、見取図点において、同盟員に八ミリカメラで撮影されたり、女性に周囲から叫び声をあげられたりした。被告安井義隆からは前記のとおり一方的な指弾を受けた。同盟員らによる右行為の結果、同原告は、数日間倦怠感を覚え、胃に変調をきたした。

(一一)  原告植田、同西本

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

原告植田及び同西本は、同月八日午後一〇時ころから翌九日の午後五時過ぎまでの間、本件第二現場において、同盟員らに包囲されて車の中に閉じ込められたまま、同盟員らから「もう少ししたら大勢集まつてくるからどうするか見とれ」、「川へはめたろうか」、「かれいの日干しのようにしてやる」などと罵声を浴びせられたり、車内に向けて電灯を照射したり、八ミリカメラで撮影するなどのいやがらせを受け、更に、乗つていた車をゆすつたり蹴つたりするなどの威嚇をされ、また、小用のため車外へ出たときも同盟員に監視されていて脱出できなかつたばかりでなく、飲食類を一切摂取することができなかつた。当時高血圧症を患つていた右原告両名は、同盟員らによる右行為の結果、肉体的にも精神的にも極度の疲労状態に陥らされた。

5  共同不法行為

まず、被告丸尾、同安井義隆、同安井千明の三名については、前記(3(一)ないし(三))認定のとおり、八日の夜、ほぼ同じ位の時刻に元津に到着して本件に関与するようになつたのであつて、関与の動機、関与形態からして、本件第一現場及び本件第二現場いずれについても同盟員ら全体の行為について概括的な認識を有していたことは明らかであるし、また、被告尾崎についても、同被告が本件第一現場の状況の始終を把握していたことは前記(3(四))認定事実から明らかであるばかりでなく、本件第一現場と本件第二現場との間の距離が一一〇メートル弱に過ぎないこと(検証の結果)、及び、同盟員らは同被告をも含めて組織的に行動していることからすると、同被告としても、本件第二現場において原告植田、同西本両名が車の中に閉じ込められていることを十分認識していたものと推認するのが相当である。してみると、被告ら四名は、他の同盟員らと共通の認識のもとに原告ら一二名に対する加害の意図をもつて一体となつて不法行為に及んだものであるというべきである。したがつて、被告ら相互間における各人の行為についての具体的認識の有無にかかわらず、ほかに特段の事情の認められない限り、被告らには共同不法行為が成立するものというべく、それぞれ連帯して、これによつて生じた結果についての責任を全部負担すべきこととなる。

二  違法性阻却事由について

被告らは、原告ら一二名に対する前記一連の行為は右原告らの差別行為に対する糾弾行為として行われたものであるから正当行為として違法性が阻却される旨主張するので、次に、この点につき判断する。

1  違法性阻却事由の判断の基礎

(一)  部落解放同盟但馬支部連絡協議会結成から朝来中学校校内確認会開催に至るまでの経緯

(1) 〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

昭和四八年五月兵庫県において解同県連が、同年七月県下の南但馬地方(朝来郡、養父郡)において部落解放同盟南但馬支部連絡協議会(以下「南但支連協」という。)がそれぞれ相前後して結成され、それと同時に、同地方の各被差別部落に解同県連の支部が設置された。被告丸尾は解同県連沢支部設置と同時にその書記長に就任した。同年一〇月南但支連協内部の組織として青年部が発足し、被告安井義隆がその部長に就任した。被告安井千明、同尾崎も右青年部に所属し、活動を始めた。被告安井義隆ら青年部員は、被告丸尾と協議をしたりあるいはその指導を受けつつ、みずからの被差別体験を行政当局の前に明らかにしてそれに対する働きかけを通して関係者の意識の改革を迫るという運動(行政点検活動)を展開し、同年一二月には和田山町や山東町の各町当局と右趣旨の折衝をもつた。

同青年部は、一方、南但馬地方において差別事象が頻繁に生じているにも拘らずそれが隠蔽されたままになつているとして精力的にもその摘発に取り組んでいたが、同四九年一月六日、折しも、兵庫県幹部職員山田久からその子息に宛てた数通の手紙を入手し、そこに書かれた内容が部落差別にあたるとして、組織をあげて糾弾活動に乗り出すことを決定した。そして、同月二八日に山田久差別文書事件糾弾闘争本部が設置され、被告丸尾はその闘争委員長になり、前記青年部の構成員はそのまま山田久差別文書糾弾闘争青年行動隊の隊員にもなつた。被告安井義隆は右青年行動隊の隊長を兼務し、被告安井千明及び同尾崎は右闘争本部の専従となり、主として教宣活動に従事することとなつた。やがて、南但支連協青年部ないし前記青年行動隊は、南但馬地方の各町当局などの行政関係者に対する糾弾行動のみならず、小、中学校などの教育現場にも関心を寄せ教育関係者自ら差別行為に及んでいながらそのことを自覚していないとして、教育現場における意識改革を求めて、町当局や学校当局などに対して強い働きかけを行うようになつた。

同青年部などの右行動と符節を合わせて、同年一月ころから、南但馬の中学校や高等学校において、主に被差別部落の生徒の間から学校当局に対して解放研設置の要求が出されるようになり、朝来中学校、和田山中学校、和田山商業高等学校などにおいては解放研が設置された。解放研は、学校当局に対して、同和教育のあり方として、部落差別の実態に学ぶ実践的な教育姿勢を提言し、教師の意識の変革とそれに基づく教育の実施を要求した。

このような状況の下、和田山中学校では、同年五月一五日、同月三〇日、同年七月八日の三回、解同県連西土田支部及び同枚田岡支部から学校当局に対して確認会の開催について強い申し入れがなされ、やむなくこれを受け入れた同校教職員との間で、同年七月一六日夜から翌一七日深夜にかけて、和田山農業研修センターにおいて確認会が開かれた。また、生野小学校でも、解同県連南真弓支部の申し入れにより、同年七月一四日、同月一八日、同月二七日、同月三〇日及び八月七日の五回にわたつて確認会が、朝来中学校においても、同校の解放研主催により、確認会が、それぞれ開かれた(後記(二)参照)。そして、右のいずれの確認会にも、前記青年行動隊所属の青年が数名出席していた。

なお、被告丸尾は、同年八月九日、解同県連沢支部長に就任した。

(2) 一方、〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

南但支連青年部の活動が活発になるにつれて、これに対応して、右活動を批判する声も高まり、これら批判的な人々が意見交換や情報交換をかさねるうちに、互いに連携しようとする動きがあらわれてきた。

原告橋本は、まず理論学習の必要を認め、自己が支部長をつとめる兵教組朝来支部の一部組合員らとともに、昭和四八年から同四九年にかけて、解同の指導者である朝田善之助の唱える部落解放運動についての理論を研究するため八鹿高校の教諭片山を招いたり、右理論と対立する立場の考えを知るため部落問題研究所の馬原鉄男を招いたり、あるいは、同和教育のあり方を研究するため同研究所の東上高志を招いたりして、学習会を開いた。また、原告橋本は、確認会において同盟員らが行つていることは差別でないか若しくは差別であるかどうか疑わしい事象をとらえて強いてこれを差別であると認めさせるものであり、その方法、態様も個人の人格の尊厳を侵す野蛮な行為であつて、特に教師に対する糾弾は、個々の教師の有する教育に対する信念を侵害するばかりか、教育機関の機能自体をも麻痺させるものであるとして、激しくこれに反発した。

そして、原告橋本ら兵教組朝来支部の一部組合員は、昭和四九年五月ころ、解同の運動に批判的な北原泰作を招聘して講演会を開催することを企画したが、兵教組本部からの指導もあつて、朝来郡内に会場を設けることは不可能となつた。そのころ、期せずして、原告植田も右北原の講演会を兵庫県城崎郡日高町において開くことを計画していた。これを知つた原告橋本は、原告植田と接触を図り、同原告に対して、志を同じくする者として右北原の日高町での講演会開催について協力したいとの申し入れをした。同年六月、兵教組朝来支部の組合員二〇ないし三〇名も参加して、日高町で、右北原の講演会が開かれた。そのころから、原告植田と同橋本は、急速に接近して連絡を密に取るようになつた。ところで、原告植田は、同年七月初旬、片山に対して、解同が行つている部落解放運動を批判しかつこれを排除するための住民運動をはじめるにつき、協力方を求め、あわせて、右運動を具体化するための組織として、日高有志連を結成することとし、同年七月、原告橋本や片山の出席の下に準備会を開き、同年八月五日、日高有志連を正式に発足させて、その会長に就任した。他方、原告橋本は、生野小学校、和田山中学校、朝来中学校などで行われた確認会に関する情報を収集したうえ右確認会を批判する記事を起案し、これを日高有志連あるいは兵教組朝来支部発行名義のビラに掲載し、同年七月から八月にかけて、日高有志連、片山ら八鹿高校教師数名、及び、日本共産党系の町会議員らの支援の下、兵教組朝来支部の組合員、八鹿高校の教師、及び、朝来郡や城崎郡内の住民などに右ビラを大量に配布した。

(二)  朝来中学校における同和教育及び校内確認会の状況

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

(1) 朝来中学校では、昭和四五年八月ころから、学校当局と被差別部落(兵庫県朝来郡朝来町沢地区)の地区代表者との間で、校長、教頭も出席して、同和教育の進め方について、頻繁に話し合いが持たれていたが、昭和四六年度になつて、被差別部落の生徒を対象とした学力促進学級が各学年ごとに一学級設置され、「希望学級」と銘うつて(ただし、「解放学級」と呼ばれることもあつた。)、全教師の参加の下、毎週一回、右沢地区にある前記福祉会館において、授業が行われるようになつた。その学習内容としては、一般教科の学力向上というよりも、一年生については生活のなかの具体的事例を通して差別の本質について考えさせること、二年生については部落の歴史を学ばせること、三年生については部落解放に向けての実践的な取り組みにつき学習させることをそれぞれ目的とした。なお希望学級には解同県連沢支部の青年が参加することもあつた。

昭和四七年四月になると、足立貞次郎教諭を顧問とし、右沢地区の生徒を主たるメンバーとする、同和研究クラブが発足したが、同四九年一月一一日、右クラブは解散して解放研が新たに設置され、これに全校生徒四三〇名中二八〇名が入会した。解放研が活動方針として重視したのは、同和学習会(解放へ向けて立ちあがるための学習会)、校内確認会(その趣旨、内容は次に述べるとおりである。)、他校との交流会(他の中学校にも解放研の設置を働きかけ解放教育を拡大推進する活動)であつた。

確認会は解放研が主催するものであるが、その目的とするところは、教師が生徒に対して部落差別をした時に、教師と生徒とという関係においてではなく、お互いに一個の人間として、教師の発言内容や行為につき事実確認したうえ、それが差別であることを気付かせ、教師自らの意識の変革を求め、生徒を部落差別と闘う人間に育て上げて解放へ向けて立ちあがらせるような教師となるべきことを覚醒させるというものであると位置づけられ、その具体的な開催、進行の形式として、多くは、解放研の生徒が予め対象とする教師を指名したうえ、当該教師のみならず他教師も出席させて学年単位で放課後体育館あるいは教室で行われていた。

(2) (本件証拠(甲第一号証を除く)上、本件ビラの記事の対象とされた朝来中学校の校内確認会の状況として明らかにしうる事項は、次の認定事実にとどまる。)

(ア) 希望学級の生徒のなかには、かねてから同学級は生徒が主体となつて運営されるべきものであるとの考えを抱いている者がいたところ、某日開かれた希望学級において、同校の能見保子教諭が汽車の時刻に間に合わなくなるとの理由で進行係であつた足立貞次郎教諭の許可を得たのみで早退した件につき、右足立教諭が生徒になんら相談しないで独断で右早退を許可したことは誤つているとの意見が生徒のなかから出され、やがて、右足立教諭の同和教育に対する教育姿勢自体を問いただすべきであるという意見に変り、解放研生徒の申し入れにより、右両教諭に対する確認会が開かれることになつた。右確認会は、昭和四九年七月二二日午前八時三〇分ころから同日午後八時三〇分ころまでの間、朝来中学校体育館において、二〇〇ないし二五〇名位の同校生徒、及び、殆んどの教師が出席して開かれた。同会場において、教師と生徒はそれぞれ向い合うようにして床に腰をおろして座り(教師がステージ側に座つた。)、解放研の生徒が司会をした。この日の確認会には、生野中学校の解放研の生徒数名、解同県連沢支部の青年数名、更に、生野中学校の夜久教諭も出席したが、同教諭は一〇分ないし一五分位遅刻してきたので、司会者ほか数名の生徒は、同教諭に対して遅刻した理由を問いただしたところ、同教諭は、そのような質問をされること自体が心外であるとの態度を示した。そこで、何名かの生徒が、右足立、能見及び夜久に対して、同教諭らが同和教育の場においても生徒らに対して教師対生徒、すなわち、指導する者と指導される者という態度で接しているとの批判を加えた。更に、生徒らは、夜久教諭に対して生野中学校でも校内確認会が開けるように努力してほしいと要求する一方、その間、数名の生徒が、足立教諭や夜久教諭を取り囲んでその周囲を「部落解放」とか「糾弾」とか叫びながら駈けまわつた。

(イ) 同月二九日、午前八時三〇分ころから午後八時三〇分ころまでの間、朝来中学校体育館において、二〇〇ないし二五〇名位の生徒が出席して、再び、確認会が開かれ、その席上、生徒から教師に対して「この前の確認会のあと家に帰つたら、親に、帰りがおそいといつて叱られた。解放研をやめろといわれた。家庭訪問して親を説得してほしい。」との意見が出された。

(三)  本件ビラの作成

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

(1) 作成の経緯

原告橋本は、昭和四九年九月初め、原告植田ら日高有志連関係者に対して、朝来中学校で行われた一連の確認会を批判するビラを日高有志連名義で発行して欲しいとの申込みをし、その了解を得たうえ、同中学校の職員から入手した情報に基づき前記確認会の状況等を記述した原稿を作成し、これを日高有志連の関係者に渡した。原告植田、同西本ら日高有志連関係者は、右原稿に若干の手直しを加えたほか、ほぼ原文のままこれを掲載した本件ビラを約五〇〇〇部印刷し、そのうちの五〇〇ないし六〇〇部を原告橋本に渡し、残余を手分けして日高町内の住民らに各戸配布した。原告橋本は、本件ビラを朝来郡内全域に配布する予定でいたところ、日高有志連から渡された部数では不足するので、更に一万部増刷し、兵教組朝来支部の組合員とともに、前記のとおり、朝来郡内の新聞販売店に本件ビラを持参して折込み配布を依頼した。

(2) 記載内容

本件ビラの見出し、前文及び本文の一部を摘記すると別紙(一)記載のとおりである。

(四)  本件ビラ配布に対する、解同県連沢支部の対応

被告丸尾、同安井義隆各本人尋問の結果によれば、次の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

被告丸尾、同安井義隆ら解同県連関係者は、本件ビラが、昭和四九年九月八日付の、新聞の日曜版に折り込まれて各戸配布されそうであるという情報を入手するや、本件ビラは、部落解放運動につきなんら実績も理論ももたない者によってつくられた、悪質な誹謗中傷の記事であるばかりか、一般の地区民の恐怖心をもいたずらに煽つて部落に対する偏見を助長拡大し、あるいは、部落に対して負の価値を与えようとするものであつて、部落民の苦しみを真に理解しない差別ビラであるとして憤慨し、即座に解同県連の組織をあげて、断固として、本件ビラの配布を阻止しなければならないと決意し、同盟員らを各新聞販売店に派遣してその撤収作業に着手した。その後の経緯は前記一1(一)1認定のとおりである。

2  違法性阻却事由の存否

個人としての尊厳が認められ、基本的人権の享有が最大限尊重されるべき今日の社会において、個人の尊敬を蹂躙するいわゆる部落差別が許されないことは誰しも認めるところである。そして、理不尽な部落差別を根絶し、差別のない社会を建設するためには、広範かつ強力な諸種の活動の展開が要請されるところであつて、その際、特定の思想に基づく活動のみが許容され、これと思想、信条を異にする活動はその存在を否定されるということがあつてはならないことはけだし当然のことといわなければならない。すなわち、部落差別の解消は絶対的な指標であるが、それに到達する過程は相対的であることが求められるというべきである。

右のことを前提において、本件における被告らの行動をみてみるに、被告らは、原告橋本ら一二名による本件ビラの作成、配布等の行為は部落差別をしようとする意図をもつてしたものではなくむしろ部落差別を拡大助長しようとしてしたものであつて被告らはこれに抗議するとともにそれを阻止するために行動したものであるから、なによりもまずその動機の点において既に正当である旨主張する。

そこで、本件ビラのもつ意味について考えてみるに、まず、その記事内容とされた朝来中学校における校内確認会の状況について明らかにしうる事項はもはや限られているが、前記二1(二)(2)認定の事実(開催時間、進行状況など)からすると、右確認会が相当厳しく追及的な調子で行われたものであると推認するに難くない。そして、その厳しさが教師の言動の問題性の濃淡に比例していたかどうかは慎重に検討されるべき一箇の問題であるといわなければならない。しかしながら、仮に右の確認会が教師の言動の内容に照らして不相応な厳しさをもつて行われたものであるとしても、本件のビラの見出しや前文は、その表現自体極めて冒涜的、誹謗・中傷的であつて、辛辣な語句を連ねることによつて、被告らの行う確認会がいかに恐怖すべきものであるかをことさら強く印象づけることに主眼が置かれているといわざるをえない。すなわち、本件ビラは、少なくとも、差別意識の撤廃それ自体を目的とする啓発の文書ではなく、原告橋本らと対立する団体である解同県連の運動に対する批判攻撃の文書であるということは文面上明らかである。しかしながら、それを越えて、本件ビラが、その見出、前文、本文の記載文言自体から直ちに差別を拡大助長する、いわゆる差別文書であると抽象的・一義的に定義されうる程、明らかに差別的言辞に満ちているとまではいうことはできないし、また、冒頭に説示したところによれば、被告らの依拠する特定の主観的立場に従つて先決的に差別文書であると断定することはもとより許されないところである。更に本件ビラの本文に書かれた事実記載が、多少の誇張はあるとしても、全くの虚偽であるとの立証がない以上、記事の信憑性という角度から本件ビラが差別的文書と断定することもいまだ困難であるといわざるをえない。

本件ビラについて言えることは以上のとおりであるが、よしんば被告らが本件ビラをもつて差別文書であると思惟したのは無理からぬとしても、被告らが現実にとつた行為は、原告橋本らによる本件ビラの作成、配布を糾弾阻止するために必要な最小限度を明らかに越えているといわざるをえない。すなわち、被告らは、原告橋本らが本件ビラの積載された能見の車を放棄して元津からの脱出を図つた以降もこれを妨害し、原告橋本らが将来において同種のビラを配布することを断念させるという意図も含まれていたとはいえ、原告橋本ら一〇名を午前七時ころから午後五時ころまで監禁状態に置き、一方、原告植田、同西本を前日午後一〇時ころから翌日午後五時過ぎころまで車の中に閉じ込めていたというものであるから、本件ビラの配布を阻止するという所期の目的からはもはや離れているばかりか、終始対決的な姿勢をもつて激越な調子で罵詈雑音を浴びせているだけであつてそれらの行動のうちには差別の解消という共通の基盤を目指して応酬をかさねていくという契機がなんら含まれていず、被告らのいう糾弾の趣旨(因に、弁論の全趣旨によつて成立の認められる乙第三一号証(九二頁)には「全国水平社創立以来六十余年の闘いの中で明らかにされてきた解放理論によつて、糾弾闘争は直接的には差別事件をひきおこした個人に対する事実関係の調査をふまえた抗議として出発するが、それにとどまらず、その個人を生み出した社会意識としての差別観念と、それを支えている差別の実態を明らかにし、これらをとり除いていくための共同の努力をつくり出していく闘いとして位置づけられてきている」とある。)からもはずれているか若しくはその建設的な側面は希薄であるといわざるをえない(被告丸尾は緊急やむを得ず急遽糾弾会を組織した旨供述するが右供述が単なる抗議以上の、積極的・建設的な意義を担つた糾弾会を志向してこれを組織したという趣旨を含んでいるとすれば、その後の事態の推移からみて、にわかに首肯しがたいことといわなければならない。)。

そして、被告らは、ほか多数と共同して、長時間原告ら一二名を監禁したばかりでなく、その殆んどの者に対して、執拗に暴行脅迫を繰り返し、その結果、原告ら一二名をして疲労困憊せしめ耳鳴りなどの傷害を負わせたのであるから、本件ビラに前記の如く表現上多少行き過ぎの点があるとしても、被告らのおこなつた行為は、その行為態様・被害の程度に鑑み、社会的相当性の範囲をもはや大きく逸脱しているといわざるをえない。したがつて、被告らの抗弁は理由がなく、採用できない。

三  損害について

1  慰謝料

前記認定の、本件不法行為の態様、被害の程度や内容からすると、原告ら一二名はそれぞれ相当深刻な精神的、肉体的苦痛を被つたことが認められ、本件の背景事情、そのほか本件審理にあらわれた一切の事情を併わせ考えると、右苦痛に対する慰謝料としては、原告梅田、同太垣、同西野、同奥村、同佐藤、同尾下、同橋本、同上垣、同松田、亡西岡二郎についてはそれはそれぞれ三〇万円、原告植田、同西本についてはそれぞれ二〇万円とするのが相当である。

2  弁護士費用

原告ら一二名が本件訴えの提起と訴訟の遂行を原告ら訴訟代理人に委任したことは当裁判所に顕著であり、本件事案の性質、認容額などに鑑みると、右委任による費用としては、原告ら一二名の各自について、三万円の限度で、被告らの不法行為と相当因果関係のある損害と認めるのが相当である。

3  亡西岡二郎の財産上の地位の相続

弁論の全趣旨によれば、亡西岡二郎について、請求原因4(二)の身分関係及び相続原因が認められる。右事実によれば、亡西岡二郎の被告らに対する前記損害賠償請求権は、原告西岡紀子が妻として三分の一、原告西岡太郎、同西岡達郎、同西岡充郎、同西岡麦穂がいずれも子として六分の一ずつ、各相続したものと認められるところ、前記慰謝料及び弁護士費用の合計金額三三万円の三分の一が一一万円であり、その六分の一が五万五〇〇〇円であることは計算上明らかである。

四  結論

以上の次第であるから、原告らの被告らに対する各請求は、原告梅田、同太垣、同西野、同奥村、同佐藤、同尾下、同橋本、同上垣、同松田については各三三万円及び右金額から前記弁護士費用を控除した残額である内金三〇万円に対する不法行為後の日である昭和四九年九月一〇日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で、原告植田、同西本については各二三万円及び右金額から前記弁護士費用を控除した残額である内金二〇万円に対する不法行為後の日である前同日から同割合による遅延損害金の支払を求める限度で、原告西岡紀子については一一万円及び右金額から前記弁護士費用を控除した残額である内金一〇万円に対する不法行為後の日である前同日から同割合による遅延損害金の支払を求める限度で、原告西岡太郎、同西岡達郎、同西岡充郎、同西岡麦穂については各五万五〇〇〇円及び右金額から前記弁護士費用を控除した残額である内金五万円に対する不法行為後の日である前同日から同割合による遅延損害金の支払を求める限度でそれぞれ理由があるが、右の限度を超える部分は理由がないものといわなければならない。

よつて、原告らの被告らに対する本訴請求を右の理由のある限度で認容し、その余の請求はこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文、九三条一項本文を適用し、仮執行の宣言は相当でないからこれを付さないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判官高山浩平 裁判長裁判官井上弘幸は転官のため、裁判官柴谷晃は転補のためいずれも署名捺印することができない。裁判官高山浩平)

別紙(一)

一 見出し

この世の生き地獄「教師をリンチする朝来中校内確認会」県連行動隊直轄下におかれた朝来中学校の実態は……

二 前文

県教委が県下一、全国まれだとほめた解放研の校内確認会は、地教委が買いあたえた「朝来中解放研」とそめぬいたはちまきをしめ、ロボット校長が見まもる中で、サジスト的発想で太幸教頭が指導し、教頭、主事になりたい若干の涜職教師をあやつり、くりひろげられる地獄絵図。

生徒は狂暴化する者、おそれおののく者、父母は防衛上塾にはしり、ものもいえず悶悶とする善良な教師を恐怖のどん底におとしいれ中学二年で一年の学習をおこない、みんなにわかるようにするのだといいわけし、高校の受験はばらばらおちる。……

朝来町教育委員会は、「ほおかむり」代行教育長は、県教委の借り物、なおもよなよなくり出す役場の職員行動隊。

三 本文(確認会に関する記事内容)

この夏休み中に「朝来中解放研」は七月二十二日、七月二十九日、八月七日、八月十七日、八月二十八日に校内確認会を行ないました。

七月二十二日の確認会設定の理由は、沢の希望学級が時間(七、〇〇〜九、〇〇)の予定で進められていたが、これを延長したので終列車に間にあわない女教師が「帰らせてほしい」と訴えたのを司会(A教師)が認めた。これに端を発して、「希望学級の主人公は沢の生徒である。」「司会が自分の専決でかえした。」「先生らはどんなつもりで希望学級に来ているのか。」が確認会の発端となりました。

七月二十二日(八、三〇〜午後八、三〇、生徒約二〇〇名〜二五〇名、朝来中体育館)

開始まもなく生野中のY教諭が生中解放研の生徒を引率して十分ほどおくれて到着しました。

「おくれた理由は何か。」を追求するため、Y教諭を体育館の中央にひとりすわらせ、解放研の生徒がぐるりとかこんだ。(二〇〇名)

携帯マイクを持つた「青年行動隊」が三名同時にY教諭の耳にこれをあて、左右前後一斉に、また次々に、「なぜおくれた。」「どあほ。」「くそあほ。」とどなり、質問と罵声が区別がつかない状況におきました。

この中で、生野中の同和教育解放研などについて答える途中で、次々と質問をあびせ「答えがしどろもどろ」になり、自分の意見もいえないまま(声もとおらない)の時間が続きました。

行動隊の指揮で、解放研の生徒たちは、二重三重のスクラムを組み、このまわりをぐるぐるかけ足でまわり、二〇〇名が一斉に力一ぱいの声をはりあげ、どなりちらしました。

また、行動隊はマイクでY教諭の耳もとで「部落」といえば解放研の生徒は走りながら全員が「解放」と答える。「生中」といえば「糾弾」と言うような状態が十一時ごろまで続きました。(二〇〇名絶叫)

そして最後Y教諭は、「九月中に生中の確認会をもちます。」と署名捺印させられました。

(ぐるぐるまわるのをインディアン方式糾弾といつている。〜六月二十二日、二十三日の但馬教育事務所所管の奨学生一泊研修で練習した。)

その後「希望学級のとき帰る汽車がないので早く帰らせてほしい。」といつた女教諭を同じ方式で追求した。いいわけは一切聞かず、質問だけは答えよといい、答えが気にいらんときは、徹底的な追求をした。(午後八、三〇分ごろまで続く。)

七月二十九日(八、三〇〜午後八、三〇・生徒約二〇〇名〜二五〇名・朝来中体育館)

N教諭にかかる

「前の確認会から一週間たつている。何したか。」「何もしとらんじやないか。」「何でできなんだ。」「何もせんということは、うらぎつている。」「地区の人の立場にどうしてなれんのか。」とつきつめ答えようとすると「もう一ぺん言え。」といい体育館の後の方から「聞こえん。」といえばN教諭は、大声をはりあげて答える。何回も何回も同じことを言われるままにくりかえした。こののちマイクで行動隊の指揮でインディアン方式がくりかえされる。

続いて「この前、家に帰つたら親におこられた」「この責任をどうするか。」「家庭訪問して親を説得せよ。」とのことで全職員で沢地区の生徒の家を訪問することを確認した。

この後「司会のA教諭」にかかつた。A教諭は「こんなこと一方的である。」と言つたのでインディアン方式をかけた。おこつて「帰る」と言うのを校長が引きとめた。(おれになんでせんならんとの意味)その夜突然「九、三〇分までに沢の福祉会館に集合せよ。」との青年行動隊指令があり朝来中学校職員は八割ほど応じた。

七月三十日、午後一時ごろまで「A教諭」の確認会が続き解放研の子どもも参加していた。

八月七日は、「家庭訪問はしてもらつたが逆効果であつた。」「解放研は正しいと本気で言つたのか。」と個々をつるしあげたのち前回同様に「A教諭」にかかり、八月十七日に「またやる。」とのことで終つた。

(「A教諭」は、今まで、西宮、大阪のやり方をまねしている太幸教頭の副官的存在であつた。)

八月十七日

A教諭つるしあげ

一学期父母懇談会のとき、今までの個別懇談をやめ一斉懇談を行なつたがこのときの「A教諭」の解放の説明が悪かった。たとえば「去年まで楽だつたが今年はえらい。」「解放研は何かあつたらすぐ先生をつるしあげる。」といつた。親は疑問をもつようになつた。「これは差別発言である。」親の疑問をとり解放研を理解するように「二年の全父母を説得にまわれ。」「八月十八日から二十四日まで一四〇名の家庭をまわれ。」と確認させ、以後中学校は、そのとおりにした。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例